三木合戦ゆかりの地めぐり その23 ~太閤岩~
伝承によると、羽柴秀吉が志方城を攻めたとき、本陣を置いた山肌にある岩に腰を下ろし、采配をとったとのこと。
ネットで場所を調べると、加古川市西神吉町辻の北側の岩山の中腹ということで、たぶんこの山だと予想して登ってみることに。


登山口を見つけるのに苦労したのですが、高御位山の登山道の途中にあるとの情報を得て見つけました。
目印はこの地蔵堂で、この向かい側から入山します。

登山道は整備されていて歩きやすくなっていましたが、傾斜はかなりキツくつづら曲がりの山道で、登山に慣れていないわたしには結構ハードでした。

で、ようやく開けた場所にある岩肌を見つけたのですが・・・どうも様子が違うようで、目的の岩はまだ先のようです。
さらに奥に進んでみると、山道は下り始めました。

どうやら、その向こうに見える山のようで、せっかく登ったのに、また下って登るのか・・・と思うと、どっと疲れが・・・。

望遠レンズで見てみると、中腹にそれっぽい岩と、看板らしき白い板が見えます。
どうやらあそこのようですね。
目標が定まったので、気を取り直して進みます。

で、ようやく目標の岩にたどり着きました。


白い板は、予想どおり看板でした。
やはり、思ったとおりここが太閤岩でした。

岩からの眺望は見てのとおり絶景です。

南は高砂の浜から加古川市全域、200度以上の大パノラマで、写真では霞んで見えませんが、はるか南東の向こうには、明石海峡大橋や淡路島まで見渡せます。

北東は志方地区全域を一望でき、たしかに、この岩に立てば、志方城のみならず、神吉城、野口城、中道子山城など、この一帯の敵方の城がすべて見渡せます。
本陣を置くには持ってこいの場所だったでしょうね。
ここは「その21」で紹介した生石神社から2kmほど北上した場所で、あるいは、生石神社から陣所の申し出を断られ、代わりに陣を置いたのがこの場所だったのかもしれません。

ただ、調べてみると、志方城攻めに秀吉が参陣していたという記録は残っていません。
記録によると志方城を包囲していたのは織田(北畠)信雄軍で、このとき秀吉は、本陣を置いた書写山に詰めていたようです。
まあ、書写山はここからそう遠くありませんから、記録に残っていないだけで、1日くらい顔見せに来たかもしれませんけどね。

本当に太閤さんが座ったかどうかはわかりませんが、太閤気分になって岩に腰掛けてみるのもいいものです(少々怖いですが・・・)。
まあ、いいハイキングでしたね。
次は、太閤岩からも見えた中道子山城を訪れます。
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by sakanoueno-kumo | 2015-06-12 19:00 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)