花燃ゆ 第32話「大逆転!」 ~功山寺挙兵~

 たったひとりで決起した高杉晋作でしたが、ほどなく力士隊を率いていた伊藤俊輔が同調して立ち上がります。すると、少しずつ共鳴する者たちが増え、遊撃隊も加わります。この時点の人数は、物の本によれば84人だったといわれていますが、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』では80人半藤一利氏の著書『幕末史』では60余人と書かれています。いずれにせよ、長州藩正規軍の兵力は役3000人。どう考えても衆寡敵せずですが、晋作はこの人数で挙兵します。

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 とは、晋作の師である吉田松陰の有名な言葉ですが、これは、松蔭の生前、晋作が「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」と質問したことに対しての答えだったといいます。今こそ命を賭けるべきとき・・・晋作は師の言葉を思い出し、そう覚悟したことでしょう。

 挙兵決行日は元治元年(1864年)12月15日。本当は、先日の14日に挙兵する予定だったようですが、準備に手間取り翌日にずれ込んでしまったと言われています。12月14日は、師の吉田松陰が最初に脱藩した日であり、また、赤穂浪士吉良邸討ち入りの日でもありました。自身の覚悟を、赤穂四十七士や松蔭の覚悟になぞらえていたのではないかと言われています。奇しくも、この日は吉良邸討ち入りのときと同じく、下関では珍しい大雪でした。

 立ち上がった反乱軍は、三条実美五卿がいた功山寺に集結。ここで晋作は三条らに、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったと伝えられます。この言葉は、この時期、ほうぼうに喧伝されました。周囲は大雪。死を覚悟し、わずか数十人で決起した反乱軍のリーダーの台詞としては、あまりにカッコよすぎですね。この辺りも、晋作が後世に人気の高い所以でしょう。そして、翌16日からは下関の会所、三田尻海軍局などを次々と襲撃して代官所を占領。さらに、軍監「癸亥丸」の奪取にも成功します。

 赤禰武人の不在中、奇兵隊をまとめていた山縣狂介は、当初は晋作の決起を時期尚早として反対の立場をとっていましたが、晋作ら反乱軍の勢いを見て、翌16日の奇兵隊の大部分を率いて合流します。山縣は若いときから、良くいえば慎重、悪くいえば老人のような性格で、長州藩若者特有の軽挙を好みませんでした。彼は晋作らに呼応するにあたって、自分は不本意ながら、やむなく決起するということを表すために、髪を剃って坊主になりました。往生際が悪いというか、その後、年が明けた絵堂・大田の戦いでは、山縣はそれなりに活躍を見せるのですが、司馬遼太郎などは『世に棲む日日』のなかで、「唯一、山県が軍人らしいところをみせた場面であった」と、皮肉たっぷりに書いています。決起して間もなく晋作に同調した伊藤俊輔と、勢いを見て乗っかってきた山縣狂介。のちにそれぞれ、初代、第三代の内閣総理大臣になるわけですが、後世の評価は、このときすでに見えていたような気がします。

 その後、瀬戸内海沿岸に布陣していた諸隊も次々に加わり、晋作は海の上から空砲威嚇砲撃を開始。俗論党の士気は下がり、反乱軍の勢いは一気に増していきます。この頃には、井上聞多率いる農民軍も加わり、その数は1000人を超えていました。こうなると、もう反乱軍ではなく、立派な革命軍です。革命が成るときというのは、人数ではなく勢いなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-10 21:40 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

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