花燃ゆ 第41話「いざ群馬へ」 ~楫取素彦の地方官出仕~

 旧長州藩主・毛利敬親の死去に伴い、山口県の権大参事の職を辞した楫取素彦は、山口県二条窪村の山荘で開墾に汗を流しながら隠棲していましたが、そんな穏やかな暮らしは長くは続きませんでした。廃藩置県改革の施行に伴い、地方行政にも優れた人材が必要とされ、そこで、隠棲していた素彦にも、その白羽の矢が立ちます。とくに木戸孝允が素彦の出仕を強く望んだようですね。しかし、ドラマのように、素彦は政府からの要請をいったんは辞退したといいます。その理由はわかりませんが、妻・寿子の健康状態のことも気になっていたでしょうし、素彦自身もこのとき既に47歳に達しており、当時の平均死亡年齢からいえば結構な高齢ですから、気力・体力的にも積極的になれなかったのかもしれません。何より、素彦は二条窪村での山荘暮らしを気に入っていたようでした。しかし、悩んだすえ、結局は地方官への出仕を決意します。

 政府から素彦に正式に辞令が出たのは明治5年(1872年)2月3日。彼が山口県への出仕を辞したのが前年の4月ですから、二条窪村での隠棲生活は1年もなかったんですね。でも、そのわずかな期間に、素彦は自ら鍬を持って荒地を開墾し、不毛の地を田畑に変えたそうです。ドラマのように、村人にも率先して溶け込み、慕われていたとか。この時代、元武士が百姓になる例は少なくありませんでしたが、大概は不慣れな農作業に四苦八苦し、うまくいかなかったたといいます。素彦は相当器用な人だったのでしょうね。

 こうして素彦は山口県を離れることになるのですが、最初に就いた出仕先は群馬県ではなく、足柄県参事(現在の副知事)でした。足柄県とは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島にあたります。そしてその2年後の明治7年(1874年)7月に熊谷県(現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域)の権令(のちの県令・知事)となり、その後、明治9年(1876年)8月に熊谷県改変に伴って群馬県が新設され、その初代県令に素彦が就きます。なんで足柄県と熊谷県をすっ飛ばしちゃったんでしょうね。ドラマの進行が明治何年の設定なのかわかりにくい描き方になっていますが、素彦が地方官として山口県を離れたのは明治5年(1872年)で、素彦が群馬県令に就いたのは明治9年(1876年)。足柄県、熊谷県時代には特筆すべき話はなかったのかもしれませんが、だとしても、4年もの歳月を有耶無耶にしてしまうのは、ちょっと乱暴すぎではないでしょうか?

 ちなみに、素彦の足柄県への出仕は、単身赴任だったようです。この頃から妻・寿子は健康を害しはじめていたようで、ひとり残った二条窪村の山荘には、美和がたびたび通っていたようです。その後、熊谷県に転任するにあたり、妻を呼び寄せたようです。そのとき美和が同行してきたかどうかはわかりませんが、どこかのタイミングで、美和も群馬を訪れ、姉の看病や家政全般を取り仕切るようになったようです。

 一方、山口では、中央政府より下野してきた前原一誠が、政府に不満を持つ士族たちと徒党を組み始めていました。一説には、前原らの不穏な兆しを察知した木戸孝允が、前原と気脈を通じた仲であり、不平士族に人望のある素彦を萩から遠ざけるため、地方官への出仕要請をしたとも言われています。そして素彦が群馬県令に就いた同じ年の10月、前原の主導する「萩の乱」が勃発するのですが、それはまた、次回以降ということで。あそこまで描いたんだから、まさか、スルーってことはないですよね?


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-13 20:34 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

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