朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
NHKの朝の連続テレビ小説『あさが来た』が好評のようですね。
わたしも、いつもは妻が観ている横で見るともなしに観ていてハマっていくというパターンなんですが、今回は、朝ドラには珍しく幕末からの物語ということで、けっこう最初から真剣に観ています。
そこで、今日は主人公・白岡あさのモデルである広岡浅子のこと・・・ではなく、ドラマ内の主要登場人物で唯一、実在の人物名そのままで登場している五代友厚についてお話しましょう。

写真は大阪証券取引所前に立つ五代友厚の像です。
五代は、大阪商工会議所の初代会頭を務めるなど大阪経済の発展に貢献した人物として知られ、同じく明治維新後に東京の経済の基礎を作った渋沢栄一と並び、「東の渋沢、西の五代」と称されるほどの大阪の顔的存在ですが、実はこの人、元は大阪には何のゆかりもない鹿児島県の人です。
薩摩藩の上級武士の家に生まれた五代は、幼少の頃から英才として知られ、通称「才助」は藩主から贈られた名前だといいます。
安政4年(1857年)、藩から選抜されて長崎に留学し、幕府の海軍伝習所で学びました。
そのとき、勝海舟や榎本武揚、坂本龍馬、木戸孝允、そしてイギリス貿易商のトーマス・グラバーなど、幕府諸藩を超えてさまざまな人物と親交を持ちます。
文久2年(1862年)、幕府船・千歳丸に水夫に化けて潜り込み、上海に渡航しました。
そのとき、長州藩の高杉晋作や、佐賀藩の中牟田倉之助らと知り合います。
いずれも、藩きっての秀才たちで、五代同様、藩の将来を担う人物として派遣されていました。
五代はこのときから、既に経済に主眼をおいて上海を歩きまわったといいます。
この渡航の際、五代は藩のために汽船購入の契約をしたという説もありますが、これについては、信憑性に乏しいようです。
いずれにせよ、経済が後の世を動かすという考えは、既に持っていたのでしょうね。
その3年後の慶応元年(1865年)には薩摩藩遣英使節団としてヨーロッパに渡り、大いに見聞を広めました。
その知識は明治維新後に新政府から必要とされ、外国事務局判事に起用されます。
大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺で起こったフランス水兵と土佐藩士との衝突事件や、イギリス公使パークス襲撃事件などの処理に手腕を発揮したことから、大阪港の開港、貿易事務も管轄し、大阪との深い関わりが生まれました。
また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致したのも五代で、初代大阪税関長も務めました。
さらに、新政府の肝いりで大阪に通商会社、為替会社を設立。
この頃には、はじめは協力に消極的だった大阪の有力両替商らからも、信望を高めます。
ドラマの加野屋のモデルである加島屋も、そのひとつですね。
その後、五代に横浜転勤の辞令が出たときには、五代留任を求める声が大阪経済界から起こったといいます。
このことからも、わずか1年ほどで、五代は大きな信頼を得ていたことがわかります。
長くなっちゃったので、明日に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2016-01-20 10:43 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)