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朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2

昨日の続きです。

明治2年(1869年)、政府から横浜へ転勤を命じられると、五代友厚は愛着のある大阪に残るために官を辞します。

その後は、金銀分析所、鉱山、活版印刷所などの事業を興したほか、関西商人らと阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)、大阪商船(現・商船三井)を起業。

そして明治11年(1878年)開業の大阪株式取引所(現・大阪取引所)の創設にも関わります。

さらに信用取引や手形取引の商慣習が乱れていた状況を見かね、仲間組合として同年に大阪商法会議所を設立。初代会頭に選ばれた五代は大阪の商秩序を正常化し、今の大阪商工会議所の礎を築きます。

教育面でも、大阪の商家の子弟を新しい経済環境に適応させようと大阪商業講習所を作り、それが今の大阪市立大学につながります。

もともと縁もゆかりもなかった大坂のまちに、ここまで尽力した友厚。

まさに「大阪の恩人」と言われる所以です。

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こちらの写真は、大阪商工会議所前にある友厚のです。

前稿で紹介した大阪証券取引所前の像同様、なかなかのイケメンですね。

昨日今日のどちらの写真も数年前に撮影したもので、そのときはわたし以外に立ち止まる人などいませんでしたが、先日、大阪証券取引所の前を通ったら、数人のおばちゃんたちが像を撮影していました。

朝ドラの力は絶大です(笑)。

でも、無粋なことをいえば、広岡浅子と五代友厚が懇意の仲だったというエピソードは、残念ながら残ってないそうですけどね。

まあ、お互い名前くらいは知ってたでしょうが。

ちなみに、「平成の五代友厚」なんて言われたりもした橋下徹氏が、昨年いっぱいで市長を退き、同時に政治家も引退されましたね。

「どこが五代友厚やねん!」とお叱りの声も聞こえてきそうですが、「大阪を変えよう、大阪から日本を変えよう」という情熱を持ってのぞんだという部分では、共通しているといってもいいでしょう。

でも、五代だったら、何が何でも信念を貫き通して、途中でケツを割ったりしなかったと思うんですけどね。

「日本のために、この大阪を育てるとじゃないのか!これ以上、東京に何もかも集めてはならん!日本のためには、もうひとつもふたつも大きなまちが入用じゃ!その企てが、やっとこさ進み始めたとこじゃっちゅうとに!話にならん!」

ドラマで横浜転勤を命じられたときの五代の台詞です。

これって、まさに橋下氏がずっと主張し続けてきたことですよね。

五代友厚だったら、大阪都構想をどう実現したか・・・そう考えたら、まだまだ橋下さんは引退してる場合じゃない気もしますね。

そんな五代友厚ですが、残念ながらその生涯は長くはなく、明治18年(1885年)9月25日に49歳の若さで病死します。

糖尿病だったといいますから、大阪のために働きながら病気とも戦っていたのでしょうね。

死の少し前には、を鹿児島から大阪に移しています。

最期は大阪市民として死にたかったのかもしれませんね。

経済人として敏腕を振るった五代でしたが、死後、遺産はほとんどなく、多額の借金だけが残っていたとか。

この点は、親交が深かった大久保利通と共通します。
西郷隆盛もそうですが、没我奉仕の精神で、私利私欲に頓着せず、不正を徹底的に忌み嫌う薩摩人気質だったのでしょうね。

さて、朝ドラ『あさが来た』は、ちょうど折り返し点を過ぎたあたりですが、五代友厚の出番は今週で終わりだそうですね。

どんな最期を迎えるのか、楽しみにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2016-01-21 18:01 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

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