真田丸 第3話「策略」 ~表裏比興の者・真田昌幸~
武田氏がまたたく間に滅亡した背景には、一族家臣たちの寝返りや逃亡に歯止めが効かなくなったことが大きな要因として挙げられますが、そんな中にあって、唯一織田軍を相手に最後まで戦ったのが、武田勝頼の実弟・仁科五郎盛信でした。盛信の守る高遠城を包囲した織田信忠は、再三に渡って降伏を勧告しますが、盛信はこれを頑なに拒否し、徹底抗戦の道を選びます。一説には、降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとか。怒った信忠は高遠城に総攻撃を開始。城方は怯むことなく立ち向かいますが、結局は多勢に無勢、孤立無援での籠城戦には限界があり、城兵400人余りは壮絶な討死を遂げました。盛信の最期は、自ら腹を掻っ捌き、腸を掴んで投げつけて倒れたといわれます。享年26歳。裏切り者たちに最後の武田武士の意地を見せたといえます。
ドラマで、徳川家康が戦後処理を指揮していたのは、そんな壮絶な戦いのあとの高遠城でした。嫌がる家康を本多忠勝が無理やり連れてきた場所は、生々しく血痕が残る盛信の自害した場所でしたね。忠勝は戦死者に手を合わせて弔うことが、武士の礼節であると言わんばかりに家康の手を引きます。尻込みする家康。う~ん・・・どうも、このドラマにおける家康のキャラが、まだつかめません。
家康の手を引いていた本多忠勝は、徳川家の家臣にして戦国きっての猛将と言われ、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王のひとりとして後世に知られます。その武勇は、織田信長やのちの豊臣秀吉ら天下人からも、「天下無双」と賞賛されるほどの勇将で、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌も詠まれたほど。もう一人の本多姓を持つ本多正信とともに、「武の本多忠勝、智の本多正信」として家康の天下取りを支えました。生涯に参戦した合戦は57にも及んだとか。数々の屍の上を超えてきた猛将だけに、敗軍の将に対する哀悼も人一倍だったかもしれません。
この本多忠勝の娘・小松姫が、のちに真田信幸(信之)の正室となります。でも、ドラマでは、既に信幸にはこうという妻がいるようですね。まあ、信幸にも数人の側室がいたようですから、小松姫より先に妻がいても不思議ではないのですが、このとき信幸は若干16歳。もう妻持ちだったのでしょうか? しかも、その妻が病弱という・・・(笑)。これ、史実かどうか、ちょっと調べがつきませんでした。
真田信繁(幸村)のガールフレンド・きりと梅は、たぶんドラマのオリジナルですね。それとも、詳細のわからない側室となる女性かな? いずれにせよ、信繁という人の少年期の逸話はほとんど残っていませんから、女性関係は架空の人物に頼らざるを得ません。そうまでして色恋を描く必要があるのか?・・・というご批判もあろうかと思いますが、女性がいなけりゃ物語に花がなくなるというもの。まあ、安っぽいラブコメにならなければ、いいんじゃないかと・・・。
で、いまのところ物語の見どころは、やはり父の真田昌幸ですね。今回は、織田信長に真田家を売り込むため、一芝居うったというお話でした。北条氏を見限って織田氏に付くと決めた昌幸でしたが、いきなり自分のような無名の小領主が信長に面と向かっても、話に応じないだろう。だったら、向こうが話をしたくなるよう仕向ける。そのためには、自身に箔をつけなければならない。そこで、小県の領主たちを集めてタウンミーティングを開き、出浦昌相とグルになって室賀正武を騙し、さらには、息子・信幸の実直さも策略の道具に利用する。さすがは食えない男・昌幸です。
実際にこのような策略が行われたかどうかはわかりませんが、「表裏比興の者」といわれた昌幸のこと。生き残りのために二枚も三枚も舌を持っていたことでしょう。しかし、後世に「卑怯者」としての印象がないのは、昌幸の策謀に卑屈さがまったく感じられないところ。小身でありながら強者たちと対等に渡り合うための権謀術数は、どこか痛快に思えます。息子たちの活躍はまだまだ先の話。しばらくは、昌幸から目が離せません。
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by sakanoueno-kumo | 2016-01-25 20:40 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(1)

