朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その3
広岡浅子は、その生涯でひとりだけ子どもを生みました。
ドラマでは千代という名ですが、実在の娘の名は亀子といいます。
ドラマように母に反抗的な少女時代だったかどうかはわかりませんが、母のようなキャリアウーマン気質の女性ではなかったようで、いわゆるお金持ちのお嬢様的女性だったようです。
幼少期は、多忙な浅子よりも、身の回りの世話をしていた付き人の小藤によくなついていたとか。
小藤という女性は、ドラマのおふゆのモデルになった女性です。
浅子は銀行に炭鉱に飛び回っていましたから、当然だったでしょうね。
それでも、浅子の聡明さは受け継いだようで、京都府高等女学校を卒業。
その後、一柳子爵家の次男・恵三を婿養子に迎え、一男四女に恵まれました。
亀子の夫となった一柳恵三(広岡恵三)という人がスゴイ人で、実家は旧播磨国小野藩主・一柳末徳の次男。
世が世なら、お殿様になっていたかもしれない人物でした。
ふたりが結婚したのは明治34年(1901年)だったそうですが、明治維新から30年以上経ったこの頃には、大名家の息子が商家の婿養子になるほど、世の中は変わってきていたんですね。
一昔前なら、浅子たちは地べたに平伏して目を合わせることも叶わなかった相手ですから。

ただ単に家柄が素晴らしいだけでなく、東京帝国大学卒の明敏さをもって経営に参加し、明治42年(1909年)には加島銀行の頭取に、そして大同生命の二代目社長として辣腕を振るいました。
その後、加島銀行は昭和恐慌の煽りを受けて廃業してしまいますが、大同生命は平成の現在もなお引き継がれていますね。
大同生命の基礎を作ったのは浅子でしたが、恵三は同社の社長を33年も続け、発展させました。
浅子が種を撒いて、恵三が水をやって育てたといったところでしょうか。
娘の亀子は浅子のように経営には参加しませんでしたが、その婿に凄腕経営者を連れてくるあたり、さすがは浅子です。
ちなみに、亀子は母のような女傑ではなかったものの、その生命力だけは母をはるかに凌いでいたようで、彼女が亡くなったのは昭和48年(1973年)、97歳だったそうです。
昭和48年といえば万博の3年後で、オイルショックの年です。
つい最近のことですよね。
幕末に結婚した女性の娘が万博まで生きていたなんて、そう考えれば、浅子の生きた時代というのは、それほど昔ではないんですね。
びっくりポンです。
あと1回だけ続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-17 11:40 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)