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真田丸 第12話「人質」 ~上杉氏の人質となった真田信繁~

徳川家康に見切りをつけた真田昌幸は、越後国の上杉景勝に対して再び従属を申し入れます。かつて傘下に下りながら短期間で関係を反故にした経緯を思えば、なんとも図々しい話ですが、実は昌幸が上杉氏に援助を打診しはじめたのは、この1年ほど前の徳川氏と北条氏が同盟を結んだときからだったとも言われます。昌幸は、いずれ沼田・吾妻領の問題が争点になるであろうことを見通し、反故の時期をうかがっていたのかもしれません。

真田丸 第12話「人質」 ~上杉氏の人質となった真田信繁~_e0158128_16232423.jpg そんな節操のない昌幸の申し出を、景勝は受諾します。その理由は、上杉氏の家風である「義」の精神も多少はあったかもしれませんが、それよりも、上杉氏にとっても真田家と結ぶことにメリットがあったからでした。というのも、上杉氏と徳川氏の間では、これまで大きな衝突こそなかったものの、徳川方に従属していた小笠原貞慶が上杉方の城である信濃国筑摩郡の麻績城、青柳城を執拗に攻めたり、上杉方の海津城の副将格だった屋代秀正が調略されたりと、お互いを仮想敵国として牽制しあう関係でした。そんななか、徳川方の最前線として上田城を守る真田氏と結ぶことは、徳川氏の勢力を弱めるとともに、上田城が反対に上杉方の最前線となるわけで、上杉氏にとっては、これを歓迎しないわけにはいかなかったと思われます。

また、上杉氏はこの少し前に上方の羽柴秀吉とも連携をとっており、昌幸としては、上杉氏と結ぶことによって、その背後に見える強大な羽柴氏の後ろ盾を得ようと考えていたのかもしれません。いずれにせよ、上杉氏と真田氏の連携というのは、残念ながら「義」の精神より「利」の要素のほうが強かったと推察されます。

 ただ、さすがにただで上杉氏に従属できたわけではありません。そこで登場したのが、真田信繁でした。昌幸は上杉に従属するとして、次男の信繁を人質として送ります。このとき、信繁は16歳とも19歳とも言われており、ドラマではすでにをも娶っていますが、実際には、元服していたかどうかも定かではありません。そのことが確認できる史料として、上杉氏家臣で海津城代を務めていた須田満親が、昌幸の叔父・矢沢頼綱の嫡男・矢沢三十郎頼幸に宛てた書状に「今度御証人として御幼若の方越し申し、痛み入り存じ候」と記されており、この「御幼若」という言葉からみるに、まだ元服していなかったのかもしれません。いずれにせよ、信繁が歴史の記録にはじめて登場した瞬間といっていいでしょう。ちなみに、このときの信繁と一緒に、三十郎も人質として同行しています。

 人質を受けた景勝は昌幸に対して、徳川・北条両氏との軍事衝突に際しての後詰めを約束するとともに、沼田・吾妻・小県の知行も認めます。さらに、このとき上杉氏に属していた小県滋野一族禰津氏を真田氏の配下につけました。至れり尽くせりですね。上杉氏がいかに真田氏を歓迎していたかがわかります。

 『真武内伝』によると、人質に送られた信繁は、景勝より屋代秀正の旧領のうち千貫が与えられたといいます。このことから、景勝が信繁を単なる人質としてではなく、家臣として遇していたことがわかります。これは、景勝がそれだけ真田氏との関係を重要視していたともとれますが、ドラマのように、信繁その人を認めたのかもしれません。人質といえども、客人として遇する・・・。ここは、上杉流の「義」の精神だったのかもしれませんね。ただし、扶持をもらえば、それに見合う働きを見せねばなりません。ドラマでは描かれていませんでしたが、『真武内伝』によると、天正14年(1586年)9月、上杉氏の新発田重家攻めに三十郎が上田勢100騎を率いて参陣し、軍役をつとめたといいます。このことは、景勝が三十郎の父・矢沢頼綱に宛てた書状に「子の三十郎参陣、別して走り廻り候条、感悦候」とあることからもわかります。信繁がこれに加わっていたという記録は存在しません。

 信繁と頼幸の越後での人質生活は、史料が乏しく詳らかではありませんが、その少ない史料から、信繁は景勝の側に付き従い、三十郎は真田家を代表して上杉氏の軍役につとめていたことが推察されます。ここで上杉家の「義」にふれたことが、後年の信繁の生き様に、少なからず影響を与えたのかもしれません。


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-28 16:25 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)

 

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