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真田丸 第13話「決戦」 ~第一次上田合戦~

 上杉氏と手を結んだ真田昌幸でしたが、これを徳川家康が黙って見過ごすはずがありませんでした。家康にしてみれば、徳川方の北方の最前線として築城したはずの上田城が敵の手に渡ったばかりか、北条氏との同盟の条件である沼田・吾妻領の譲渡問題も昌幸の寝返りによって頓挫してしまったわけで、その責任上からも、真田氏を許しておくわけにはいかなかったわけです。こうして起きたのが、天正13年(1585年)閏8月2日の徳川軍による上田城攻め、世に言う「第一次上田合戦」でした。

e0158128_20435306.jpg この合戦は、信濃国の一国衆である真田氏が、徳川軍を完膚なきまでに撃破した戦いとして有名ですが、実は、その内容は確実な史料に乏しく、詳細は不明です。一般的に知られている経緯は、実際に合戦に参加していた大久保忠教『三河物語』によるところが多く、ここでも、その『三河物語』に沿って解説していきます。

 徳川方の布陣は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉という精鋭を指揮官とした7000の大軍。これに対して迎え撃つ真田方は2000余り。徳川方の3分の1以下でした。そこで昌幸は、城下の農民たち3000余人を城に籠城させ、女子供にも石を投げさせて攻撃させたといいます。この時代、石つぶては、立派な兵器でした。

e0158128_23584558.jpg さらに『三河物語』によると、真田方は400人ほどで本丸を守り、昌幸の長男・真田信幸は800余りの兵を率いて城外に布陣し、城下の町筋には「千鳥掛け」と呼ばれる「ハ」の字に互い違いにした柵を設け、大軍が容易に進めないようにしました。そして信幸は農民たちを山野に潜ませて伏兵とし、自身は神川まで出陣して徳川方と軽く一戦を交えたのち、わざと徳川軍に追撃させ、城近くまでおびき寄せました。ドラマではこの役目を担っていたのは弟の真田信繁でしたが、『三河物語』によると、兄の信幸でした。

 このとき、徳川軍は城の大手を破って二の丸まで乱入。しかし、狭い場所に突入した兵は大軍としての機能を失い、ドラマで昌幸がで例えていたように、陣形が縦に長く伸びてしまいます。大軍と戦う場合、敵の陣形を縦に長く伸ばしてその横っ腹をつくというのは常套手段です。それでも、圧倒的な兵力差に慢心していた徳川方は、さらに城内に突入。しかし、それこそが昌幸の思惑通りでした。敵を十分に引きつけたと見た昌幸は、城内に準備していた大木の綱を切って、敵方の頭上に落とします。意表をつかれた徳川方の兵たちは大木に押しつぶされたり逃げ惑うなどの大混乱に陥ります。それを見た真田方の城兵たちは、動揺する徳川軍めがけて一斉に銃撃弓矢を撃ちかけました。

 たまらず後退した徳川軍は、われ先にと逃げ出し始めます。しかし、その退路を阻むのは、事前に仕掛けておいた「千鳥掛け」でした。思うように退却できない徳川軍は、さらに混乱を極めます。そこに、身を潜めていた信幸の兵が側面を襲います。恐怖にかられた徳川軍はパニックになり、ここで多くの死傷者がでました。ほうほうの体で逃げ出した兵たちの前に立ちふさがるのは、折からの雨で増水していた神川。しかし、本能的に逃げ出した兵たちのパニックはおさまらず、無理やり川を渡って逃げようとしたため、多くの兵が溺れ死んだといいます。

 以上が『三河物語』による「第一次上田合戦」のあらまし。真田信繁は登場しません。江戸時代に記された松代藩真田家の家記『上田軍記』によると、上杉氏に人質として出されていた信繁が、上杉景勝に許されて急遽上田に帰り、父・昌幸より軍勢を預けられてこの合戦に参加したとあるそうですが、これが史実かどうかは明らかではありません。義を重んじる上杉家といえども、さすがに人質を開放するほど甘くはなかったでしょう。表裏比興の者といわれた昌幸ですから、上杉方としては、再び徳川方に寝返る可能性も考えておかねばならなかったでしょうからね。信繁はこの合戦に参加することはなかったと見るほうが賢明でしょう。ドラマとしては、『上田軍記』に則ったほうが面白いですけどね。

ちなみに、ドラマではという名で出ていた信繁の最初の子・すえを産んだ側室は、史料では堀田作兵衛の妹(もしくは娘)と記されているだけで、いつ、どのようにして別れたかは定かではありません。

この合戦に上杉氏の援軍は得られず、真田軍単独で行われました。家康不在とはいえ、歴戦の精鋭が顔を揃えながら寡兵惨敗した徳川軍。ナレーションにもありましたが、この戦いにおける徳川軍の死者は1300余りといわれ、真田軍の死者は50名にも満たなかったとか。真田昌幸という名が天下に轟いた瞬間でした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-04 23:59 | 真田丸 | Comments(4)  

Commented by mm at 2016-04-05 03:20 x
この3/27の中日新聞に以下のような記事があります。
”第一次上田合戦で幸村も戦った? 「不参加」通説覆す学説浮上”
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20160327/CK2016032702000008.html
昨年5月と今年2月に2人により参加説が2つ出ています。そして『二人の説について、NHKの大河ドラマ「真田丸」で時代考証を務める歴史学者(中近世史)、平山優さんは「傾聴に値する。須田の書状とは別の史料からは、上杉方から戻った幸村に代わり昌幸の妻が人質に赴いたふしもある。通説は見直すべきだ」と評価した』そうです。

今回の大河ドラマ、どんどん出てくる新学説をフォローアップしていて面白いですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-04-06 21:41
> mmさん

コメントありがとうございます。
当方ただいま多忙を極めており、RESSが遅くなって申し訳ありません。

この記事のことは知りませんでしたが、第一次上田合戦への参加説というのは、通説ではありませんが以前からあったと思います。
記事を読む限りは、特に新たな史料が見つかったというわけではなく、現存する史料を違う解釈でみた推論のようですね。
「傾聴に値する」と評した平山優さんの著書は2冊ほど購読しましたが(当ブログの起稿にも、大いに参考にさせてもらってます)、平山氏は「御幼若=信繁」と解釈して、越後にいたはずだと断定しておられました。
なのに、なんで「傾聴に値する」となるのかなぁ?・・・と思ったりもしますが、たぶん、それだけじゃないんでしょうね。
わたしも、たしかに「御幼若」という表現には違和感を覚えたのですが、平山氏が信繁のことを指すと述べておられたので、そう思っていました。

大河ドラマに取り上げられることで、再注目されて新史料が見つかったケースは過去にもたくさんあります。
真田信繁に関していえば、人気が高い人物のわりには史料に乏しい人物です。
これを機に、新しい発見があればいいですね。
Commented by heitaroh at 2016-04-07 18:19
私はお梅ちゃんの戦死のシーンは必要だったのか?・・というのが印象でした。死ななければならないにしても、病死で良かったんじゃないかと。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-04-08 03:58
> heitarohさん

おっしゃるとおりですね。
今話のお梅ちゃんは、赤ん坊に乳をやりながら戦場をうろちょろ邪魔してただけで、あげくは死んでしまって、なんとも哀れとも思いませんし、悲話とも思いませんでした。
女子供も戦に参加していた様が描きたかったのでしょうが、身分が低いとはいえ真田家の子を産んだ女性ですから、お梅の最大の仕事は城内で赤ん坊を守ることだったんじゃないかと。
無意味な戦死でしたね。

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