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真田丸 第15話「秀吉」 ~真田信繁(幸村)の大坂入り~

 上杉景勝羽柴秀吉に謁見すべく上洛したのは、天正14年(1586年)6月。このとき景勝は養子の上杉義真(畠山義真)を人質として差し出し、臣下の礼をとりました。ドラマではこのとき本領安堵を約束されていましたが、実際には、元々の領国である越後国の領有は安堵されますが、属国として支配していた越中国、上野国(真田領)は放棄させられ、代わりに佐渡国、出羽国の切り取りを許可されます。このとき、景勝は正親町天皇(第106代天皇)にも拝謁し、左近衛少将に任じられています。

e0158128_20004830.jpg ドラマではその景勝に付き従って大坂入りした真田信繁でしたが、実際には、そのような記録は存在しません。さりとて、信繁がいつ大坂城に送られたかを知る史料もなく、詳細はわかっていません。一説には、景勝が上洛しているあいだに、人質として越後にいた信繁を昌幸が勝手に連れ出してそのまま秀吉のもとへ送ったため、景勝が激怒したという話があり、小説などでもこの説が採用されていたりしますが、それは無理があるでしょうね。おそらく、景勝の了承のもと大坂に送られたと考えられます。

ただ、景勝が上洛した同じ年の9月、徳川家康の上洛が決定すると秀吉は昌幸に人質を出すよう命じていますが、昌幸がこれに従わなかったため、怒った秀吉は家康に昌幸討伐を命じたという事実があります。そこからわかることは、この時点で真田家は、まだ秀吉に人質を出していなかったということ。つまり、信繁はまだ越後にいたということですね。となると、やはりドラマの設定は無理があるかもしれません。もっとも、ドラマでは人質として大坂に来たわけではありませんから、このまま何らかの理由で大坂に残り、そのまま人質になったという設定はなくはないですが(少々苦しくはありますが)。いずれにせよ、この天正14年(1586年)から昌幸が上洛する翌年の春にかけての何処かで、信繁は大坂に入ります。信繁18歳もしくは21歳の頃です。

e0158128_20022019.jpg 景勝と面会した秀吉は、真田への支援を禁ずる旨を命じていましたが、これは事実で、秀吉は昌幸を家康の配下に置くことを決め、これを景勝に了承させています。というのも、このころ秀吉は、家康を従わせるためにあの手この手で骨を折っていた時期で、この年の5月には、実妹の朝日姫を家康の正室に娶らせるなどして懐柔しようしていましたが、それでも家康は上洛しようとせず、苛立っていました。家康が上洛しない理由のひとつが、北条氏との間の沼田・吾妻領譲渡問題が決着をみていなかったことにありました。そこで秀吉は、真田氏を上杉氏の傘下から徳川氏麾下に移し、家康が領土問題を独断で解決しやすいように仕向けたのです。その上で、秀吉は昌幸に上洛を促しました。

e0158128_20435306.jpg ところが、昌幸は上洛の要請にいっこうに応じず、また、上洛の代わりに人質をよこすよう命じますが、これも拒否しています。その理由は定かではなく、ドラマでは、秀吉の勢いを見定めている設定でしたが、実際には、やはり、沼田・吾妻領譲渡問題にあったと見るのが正しいでしょうね。昌幸にしてみれば、上洛している間に北条軍に自領が攻撃される心配があり、また、上洛して謁見した秀吉に、沼田・吾妻領の譲渡を命じられるかもしれないといった危惧もあったでしょう。昌幸にしてみれば、秀吉からの沼田・吾妻領安堵の確約と、徳川・北条両氏との停戦命令がない限り、上洛するわけにはいかなかったのでしょう。

 かくして秀吉は、いっこうに命令に従わない昌幸を「表裏比興之者」と指弾。家康に成敗を命ずるとともに、景勝に支援無用を命じます。昌幸、またしてもピンチに晒されることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-18 20:08 | 真田丸 | Comments(2)  

Commented by 50代の歴史好きなおっさん at 2016-04-19 11:42 x
毎回たのしく拝見しております。今回も歴史事実をもとにご解説ありがとうございます。信繁は大阪城にいなかったのでしょうね。脚本家三谷はそれでも秀吉を中心とする幸せ絶頂の家族を主人公を通して視聴者に見せたかったのでしょう。有働さんのナレーションでこの後○○はどうこうして不幸になる。という解説をアップになったあとすぐ解説していた事により、いっそう幸福感が増しました。今後の彼らの下り坂を思うと涙を誘います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-04-19 21:13
> 50代の歴史好きなおっさんさん

過分なお言葉ありがとうございます。
この時期から小田原攻めあたりまでが、豊臣家の絶頂期だったかもしれませんね。
ナレーションでは、秀次と秀秋のことだけ語られていましたが、清正にしても正則にしても、決して幸せを掴んだとは言いがたい末路でした。
立場が人を育てるともいいますが、やはり人間、あまりにも分不相応な地位を手に入れると、不幸な結果になるんでしょうね。
あるいは、分不相応を自覚していれば、違った結果があったかもしれませんが。
あのなかで、唯一穏やかな晩年を迎えたといえるのは、寧々だけですね。
その意味では、寧々はファーストレディの地位を得ながらも、分をわきまえていたのでしょうね。

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