備後福山城のまち逍遥備忘録 その4 「赤門・小丸山」
福山城三の丸北側は現在テニスコートや護国神社になっていますが、その北側に「赤門」と呼ばれる門があります。
時代は進んで幕末、長州軍と幕府軍の激戦地となった場所です。
慶応4年(1868年)1月9日、前年から尾道に駐屯していた長州軍は、徳川譜代の大名である阿部家を攻めるべく福山城下に侵攻しました。
ちょうどこの3日前、京都は鳥羽伏見の戦いにおいて薩長軍は幕府軍を破っており、勢いづいていました。
反対に福山藩は、前年の11月22日に9代藩主・阿部正方が病没していたものの、時局多端のためその死は秘され、1月9日未明、まさに長州藩兵が福山城に攻撃を行う数時間前に、城内北西の小丸山に仮埋葬されたばかりでした。
長州軍は堀が築かれていない福山城の北側から攻撃を開始。
しかし、天神山、小丸山などの自然の地形を巧みに生かした福山藩兵の銃撃により、長州軍の進撃はここ赤門で阻止されます。
その後、7代藩主・阿部正弘の側近で福山藩の儒学者・関藤藤陰(当時は石川和助)が、福山藩家老の三浦義建と共に藩を代表して長州藩との交渉を行い、新政府に参加していた広島藩主・浅野長勲の実弟・正桓を次期藩主として迎え入れることを条件に、福山藩と長州軍の間で講和が成立。
これ以後、福山藩は新政府軍に加わり、福山城下は戦火を免れます。
赤門をくぐったところに建つ捨生取義の石碑です。
明治維新前後の動乱(石州の役、函館の役、佐賀の役、台湾の役、西南の役)の戦闘で命を落とした旧福山藩士110名の名が刻まれています。
明治19年(1886年)に建てられたものだそうで、その揮毫は、最期の藩主となった阿部正桓によるものだそうです。
長州軍から福山城を死守した小丸山は、「先人の森」として福山の礎となった人々の顕彰碑が建てられています。
これは、寺地舟里という医学者の碑。
こちらは、江木鰐水という兵学者の碑。
そしていちばん奥には、福山藩初代藩主の水野勝成の碑。
なんだ、慶応4年1月の攻防とは関係ない人ばかりじゃないか!
なんで、ここに関藤藤陰を入れないんでしょうね。
次回に続きます。
備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」
備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」
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by sakanoueno-kumo | 2016-04-27 13:37 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)