備後福山城のまち逍遥備忘録 その5 「備後護国神社(阿部神社)」
福山城北側三の丸には、備後護国神社があります。
ここは昭和32年(1957年)まで阿部神社と称えていましたが、護国の英霊と合祀され、社名が備後護国神社と改められました。
そもそものはじまりは、文化10年(1813年)、福山藩主・阿部氏の遠祖である大彦命・武沼河別命・豊韓別命と歴代藩主を祀る勇鷹(いさたか)神社として創建されたことに始まります。
その後、明治10年(1877年)に阿部神社と改称、県社に列しました。
最初と2枚目の写真は西側にある備後護国神社としての正式な参道で、3枚目4枚目の写真は南側にある阿部神社の時代の参道です。
拝殿と本殿です。
境内には、7代藩主・阿部正弘の石像があります。
福山城二の丸にも正弘の像がありましたが、あっちの方がイケメンでしたね。
でも、こっちのほうが肖像画に似てるかな?
若干25歳で老中首座(現在でいえば内閣総理大臣)に就任した正弘は、ペリー来航にあたり日米和親条約を締結したことで知られています。
教育の重要性を早くから唱え、その人材を育てるために藩校・福山誠之館を創立しました。
そのため、現在では受験合格、学業成就の神として信仰されているそうです。
そういえば、正弘は薩摩藩主・島津斉彬や水戸藩主・徳川斉昭とともに、日本の国旗を「日の丸」と制定した人物でもあります。
昨今の卒業式などで日の丸に敬意を払わない教員さんを見て、正弘はどう思うでしょうね。
あと、境内には「宮本武蔵腰掛石」があります。
読んで字のごとく、宮本武蔵が座ったとされる石ですね。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣において、武蔵は水野勝成の陣に属したとい伝わり、その後、福山藩初代藩主となった勝成を訪ねて福山城を訪れた際、家老・中山将監の屋敷の庭園で腰を掛けた石が、この石なんだそうです。
実話かどうかはわかりませんが、NHK大河ドラマ『武蔵』のなかでも紹介されていました。
まあ、武蔵の伝説は全国各地にありますけどね。
そんなこんなで、シリーズはあと1回だけ続きます。
備後福山城のまち逍遥備忘録 その6 「水野勝成の墓所・聡敏神社」
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2016-04-28 16:12 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)