大和郡山城跡を歩く。 その1 「二の丸」
「郡山城」という名称の城は全国に複数あって混同しがちなので、便宜上ここを大和郡山城と呼んだりしますが、正式名称は郡山城です。
郡山城の築城は天正8年(1580年)、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始められ、天正11年(1583年)には天守閣が完成。
その後、天正13年(1585年)8月に、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長が入城。
秀長は紀伊国、和泉国、大和国の3カ国百万石の太守・大納言として、城の拡張工事を行いました。
現在のこる石垣などの遺構は、秀長時代のものだそうです。
城跡公園北東の角にある「桜御門跡」です。
時代を感じさせる「野面積み」ですね。
「野面積み」とは、自然石をそのまま積み上げる手法で、加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないので、隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、逆に隙間があるおかげで排水性が良く、頑丈でした。
主に関ヶ原の戦い以前の16世紀の城に用いられた手法です。
城跡の東の堀に沿って近鉄橿原線が走っていて、そこから堀を挟んで「東隅櫓」が見えます。
全国金魚すくい選手権大会があるようです(笑)。
南東の角にある「鉄御門」から城跡公園内に入ります。
こちらの石垣も同じく野面積みです。
まずは内堀に沿って歩いてみました。
鉄御門跡から西へ進んだところにある「表門跡」です。
道は石畳に整備されており、車の通行も可能です。
本丸南西にある「中仕切門跡」です。
枡形虎口となっています。
そのすぐ西側にある「松蔭門跡」。
ここに「松蔭郭」という曲輪があったようです。
松蔭門の北側にある松蔭池に面する石垣です。
この石垣は、「打込み矧ぎ」に見えますね。
「打込み矧ぎ」とは、表面に出る石の角や面をたたき、平たくして石の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で、主に関ヶ原の戦い以後に用いられた手法です。
ここは、秀長時代のものではないのかもしれません。
更に西へ進んで「西御門跡」。
ここは奈良県立郡山高校城内学舎の校門にあたります。
郡山高校といえば、かつて甲子園の常連校だった高校ですね。
さて、次回は門の中に入ります。
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by sakanoueno-kumo | 2016-05-12 00:49 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
そもそも、何で郡山っていうんですか?
毛利元就の居城も吉田郡山城でしたし、あちこちにありますよね。
郡の境の山だったとか?
むっ、むずかしい質問をしないでもらえますか?(笑)
全国各地にある「郡山」もそうですが、「小郡」や「上郡」「下郡」「中郡」など、「郡」がつく地名ってけっこう多いですよね。
たぶん、律令制時代の「国郡里制」の「郡」が関係しているんでしょうけど、よくわかりません。
ってか、地名の由来って、諸説あって定かでないものがほとんどなんじゃないでしょうか?