山崎合戦のまちを歩く。 その3 「天王山登山道~秀吉の道陶板絵図」
宝積寺をあとにして天王山山頂を目指します。
登山道はハイキングコースになっていますので、そう苦もなくのぼれます。

この日は昨秋10月18日の気候のいい日だったので、絶好のハイキング日和で多くの登山客とすれ違いました。

途中の休憩所から見た天王山南側の眺望。
中央の高いビルとビルの間に、かすかに大坂城が見えるとのことですが・・・。

う~ん・・・見えるような見えないような・・・。

登山道の道中には、頂上まで数カ所に分けて「秀吉の道」というタイトルの大きな陶板絵図が設置されています。
説明書きを見ると、堺屋太一氏の監修・解説、岩井弘氏の屏風画なんだとか。
お金かけてますねぇ。
せっかくなので、まとめて紹介しておきます。

最初に目にしたのが、ハイキングコース最初の展望台「青木葉谷展望台」に設置された陶板絵図。
題名は「秀吉の中国大返◆勝負を決めた判断と行動◆」
わずか1週間足らずで備中高松城から引き返していた、有名な羽柴(豊臣)秀吉の中国大返しが解説されています。

続いて、ハイキングコース八合目あたりの酒解神社大鳥居をくぐったところに大きな陶板絵図が2枚。

まずは、山崎合戦直前の各部隊の陣を描いた絵図。
題名は、「頼みの諸将来たらず◆明智光秀の誤算◆」
明智光秀があてにしていた諸将の援軍は来なかったという、光秀の誤算がテーマです。

そのすぐ隣の絵図は、まさに合戦の様子を描いたもの。
題名は、「天下分け目の天王山◆勝負は川沿いで決まった◆」
前々稿でも言いましたが、天下分け目は「関ヶ原」だと思うんですけどね。

さらに山を登って、酒解神社を過ぎたあたりにある絵図。
タイトルは「明智光秀の最後◆古い常識人の敗北◆」
たしかに、光秀はこの時代の常識人、秀吉や信長は非常識人でした。
時代を変える英雄というのは、その時代の人から見れば非常識な人じゃないとだめなんでしょうね。
秀吉に敗れた光秀は、落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命しますが、絵図は、まさにその寸前を描いたものです。

最後は、山頂にある絵図。
題名は「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」
秀吉は光秀との戦いに勝利すると、ここ天王山山頂に山崎城を築城し、大坂城に移るまでの拠点とします。
まさに、秀吉の天下への道はここからはじまりました。
陶板の堺屋氏の解説では、「秀吉のきらびやかな天下。-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」と結んでいます。
それにしても、登山道の道中にこのような立派な陶板を設置するなんて、運搬がたいへんだったでしょうね。
次回につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2016-06-23 00:02 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)