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真田丸  第26話「瓜売」 ~文禄の役と瓜畑遊び~

 天正19年(1591年)8月5日に愛児・鶴丸を失った豊臣秀吉は、すぐさま、来春に「唐入り」(朝鮮出兵)を決行することを全国に布告します。世に言う「文禄・慶長の役」の始まりですね。ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの記した『日本史』によれば、支那征服への思いはかつて織田信長も抱いていたといいますから、秀吉はその思想を引き継いだのかもしれません。秀吉の構想は信長のそれより壮大なもので、のみならず台湾フィリピン、さらにはインド南蛮への進出も視野に入れた「アジア帝国」を夢想していたともいわれます。

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「朝鮮と民を従えて、わしは大王になるぞ!」

 本当に、こんな台詞を言ったかもしれませんね。

 「唐入り」を布告した秀吉は、同じ年の10月、その準備として肥前国に名護屋城の築城を開始します。工事は加藤清正、小西行長らを中心に突貫作業で進められ、わずか半年で竣工しました。さらに、その名護屋城の周りには全国の諸大名の陣屋が建ち並び、わずか数ヶ月の間に人口は20万人に膨れ上がり、戦時だけとはいえ大坂に次ぐ大都市となりました。集結した諸大名たちは、秀吉による天下統一の世を、改めて肌で感じたことでしょう。

 年が明けた文禄元年(1592年)4月、豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団を率いて朝鮮半島へ侵攻を開始します。総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家。朝鮮半島に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧。その後も連戦連勝を重ね、わずか20日間で首都の漢城を占領しますが、その快進撃もそこまで。その後、からの援軍が登場し、さらに、海上では朝鮮水軍の前に苦戦を強いられ、戦況は膠着状態に陥ります。

そんななか、秀吉は名護屋城のそばにある瓜畑に諸大名を集め、「瓜畑遊び」なるイベントを催します。「瓜畑遊び」とは、現代でいうところのコスプレパーティ。この話は、江戸時代に刊行された『絵本太閤記』などの書物に登場するエピソードです。それによると、前田利家高野聖蒲生氏郷茶商人織田有楽斎は旅の老僧、そして堅物の徳川家康までもが、あじか売りを演じて周囲を大いに笑わせました。そして秀吉が演じたのは、今話のタイトルの瓜売り。菅笠に腰蓑姿で籠を担ぎ、「味よしの瓜めせめせ」と、調子に乗せて声を張り上げる姿は、もともと卑賤の出である秀吉らしく堂に入ったものだったと伝わります。

 なぜ、秀吉はこのようなイベントを企画したのか。戦況が膠着状態のなか、中だるみしていた士気を鼓舞する意図だったかもしれませんし、あるいは、ただ単に名護屋城での生活が退屈だっただけかもしれません。まあ、現代でもそうですが、上に立つものがこういった無礼講の席を持つということは、チームワークを高める意味では効果が期待できます。このあたりは「人たらし」と言われた秀吉らしい演出で、数々の悪政を行いながらも、秀吉が後世に愛される理由は、こういった明るさにあるのでしょうね。

このイベントに真田昌幸が参加していたかどうかは定かではなく、もちろん、秀吉と出し物がかぶったという話は、ドラマのオリジナルです。それにしても、「瓜売り」の出し物をめぐって右往左往する様子は笑えましたね。

信繁「えらいことになりました!・・・そしてまずいことに、明らかに父上の方がお上手なのです。」

昌幸「なんたることじゃ!」

且元「これはいかん!太閤殿下に恥をかかせるだけだ。安房守殿、申し訳ないがもっと下手にできませぬか?」

信幸「父上はこの日のために血のにじむような稽古をしてまいりました!」

家康「そんなに安房守の瓜売りはよく出来ておるのか?」

信繁「身内が言うのもなんですが大したものです!なんとか徳川様から太閤殿下に出し物を変えるよう、それとなく勧めてはもらえませぬか?」

家康「力になりたいのはやまやまだが、今更それは申せまい。残念だが、ここは安房守に折れてもらうしかないな。」

信繁「思い切って瓜売り勝負と致しましょう。父上のあとに太閤殿下が演じられると見劣りしますゆえ太閤殿下が先でそのあとに父上が・・・あ~!それもよくないな!う~ん・・・。」

昌幸「もうよい!・・・真田安房守、本日急な病にて参れません。」

盛清「それがよかろう・・・。」

たかが余興ネタの話が、ほとんど政治問題でしたね(笑)。皆の真剣ぶりが滑稽で笑えましたが、考えてみれば、現代でも無礼講の席とはいえ上司やクライアントに花を持たせる気遣いは当然のことで、当人にとってみれば重大問題。くだらない話のようですが、的を射ているといえます。秀吉が企画したイベントですが、参加者たちは、きっと秀吉にいい気分になってもらうよう気を揉んだでしょうからね。

 さて、そんな「瓜畑遊び」の前か後か、ちょうど同じ頃、淀殿の2度目の懐妊が発覚、そして文禄2年(1593年)8月3日、待望の男児が生まれました。名は「拾」。のちの豊臣秀頼ですね。秀吉はこれを機に名護屋城から大坂城に戻り、それが影響してか、明・朝鮮連合軍と戦いは講和に舵が切られはじめます。もともと鶴松死去と共に始まった「唐入り」でしたから、再び男児が生まれたことで、秀吉の大陸に対する情熱は、多少は薄らいだかもしれませんね。ただ、この男児出産の報せでいちばん動揺したのは、前年12月に秀吉から関白職を譲り受けていた甥の豊臣秀次だったであろうことは、想像に難くありません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-04 20:43 | 真田丸 | Trackback | Comments(2)  

Commented by ZODIAC12 at 2018-10-25 21:33 x
さて、「唐入り」に言及してる記事がいくつもありますので、どこに書き込もうかと思いましたが、取り敢えずはここにします。
私は「朝鮮出兵」なる呼び方はしません。「唐入り」「唐御陣」「文禄・慶長の役」と呼んでいます。

唐入り関連の他の記事にサラッと目を通してみても、どうやらsakanoueno-kumoさんはどちらかと言うと、唐入りを否定的に評価している節が窺えます。
私も嘗てはそうでしたが、今は違います。


秀吉がこの一大国際戦争を起こした動機は、従来伝えられて来たものだと・・・


●老いた秀吉の耄碌

●秀吉の血迷った領土拡大の野心

●日本国内に諸大名に与えてやれる領地が無くなってしまった為、国外へ打って出て領土を分捕ろうとした

●天下を平定して戦国が集結した事で大量に生じた失業兵士たちの失業対策として、国外への征服に駆り出して仕事を与える為


とまあ、概ねこんな所じゃないでしょうか。
けれどこれらは単なる俗説でしょう。「木を見て森を見ず」な見方だと思います。


この唐入りで秀吉を始めとして、日本全国の諸大名が戦った本当の敵とは、遠征途上の通過点に過ぎなかった朝鮮でなかったのは勿論、本命の征服目標とされた明ですらありませんでした。

その真の敵とはスペインです。
当時のスペイン王国(帝国)は優れた君主だった国王フェリペ2世の統治下で、まさに絶頂期にありました。
ヨーロッパのみならず、新大陸(アメリカ)、アフリカ、アジアに植民地を獲得し、世界最大規模の版図(領土)を誇っていました。
その為に「太陽の沈まぬ国」と称され、軍事力も当時の世界で最強最大を誇っていました。
そんな「世界一強い超大国」スペインこそが、秀吉と全国の諸大名が戦った本当の相手なのです。

そしてその結果、秀吉率いる日本連合軍は最終的に、世界最大の巨大帝国スペインとの戦争に見事勝利を収めました。
要約すればそれが唐入りの本当の姿なのです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-10-27 13:45
> ZODIAC12さん

そんな説があるんですね。
それほど詳しいわけではありませんが、わたしがこれまで読みかじってきた本などでは、そのような説を目にしたことはありませんでした。
でも、「文禄・慶長の役」「スペイン」でググってみたら、確かにそんな見方があるようですね。
また、時間があるときにゆっくり見てみます。

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