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山崎合戦のまちを歩く。 その8 「山崎宗鑑冷泉庵跡~妙喜庵」

天王山登山口のすぐ横に、「山崎宗鑑冷泉庵跡」があります。

山崎宗鑑「俳諧の祖」と称される室町時代後期の歌人で、出家後、この地に隠棲していたと伝わります。


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宗鑑は本名を志那弥三郎範重といい、寛正6年(1465)頃に近江国で生まれたと伝わります。

生家は支那地区を幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、あの一休禅師とも親しかったとか。

しかし、義尚が佐々木高頼との合戦(鈎の陣)で没したため、世の無常を感じて剃髪し、入道となってここ山崎の地に隠棲したそうです。


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宗鑑は、この近くにある離宮八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、ここ冷泉庵での講を主催しながら、後世に知られた『犬筑波集』を生み出した。

また書も宗鑑流として多くの人々から珍重されたそうです。


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「霊泉連歌講跡」と刻まれた石碑の横には、宗鑑の句碑があります。


「うつききて ねぶとに鳩や 郭公(ほととぎす)」


この句は掛詞を巧みに使い、その手法は、のちの俳諧の基礎となったそうです。


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冷泉庵跡の南に位置するJR山崎駅の近くには、宗鑑が隠棲場所として建立したつ伝わる「妙喜庵」があります。

山号は豊興山

「妙喜禅庵」とも称します。


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ここには、二つの国指定文化財があります。

まずひとつは、千利休山崎合戦直後に建立したと言われる草庵風の茶屋「待庵」で、後世に多大な影響を与えた日本最古の茶室建造物であるとともに、日本に唯一現存している利休が建てたと確証できる茶屋として、国宝に指定されています。


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また、もうひとつは、室町時代の文明年間(1469年~1487年)に妙心寺霊雲院書院を模して建てられたとされた書院「明月堂」があり、こちらも国の重要文化財に指定されています。


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ただ、残念ながら、建物内を見学するには1ヵ月以上前からの予約が必要だそうで、無計画に訪れたわたしは、外観のみの見学です。

入口の説明書きによると、予約は往復ハガキで1ヵ月以上前に申し込み、見学時間は午前中のみで、高校生以下は謝絶とのこと。

めっちゃ厳しいやん!

まあ、利休ゆかりの国宝ですから、やむを得ないかな。


次回に続きます。



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山崎合戦のまちを歩く。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-13 17:14 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

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