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真田丸 第28話「受難」 ~新説・秀次事件~

 豊臣政権のターニングポイントとなった「秀次事件」ですが、従来の話では、継嗣となる(のちの豊臣秀頼)の誕生によって関白・豊臣秀次の存在が邪魔になった豊臣秀吉が、あの手この手を使って秀次を追い詰め、やがてはあらぬ嫌疑をかけて切腹に追いやる・・・というもので、後世に秀吉の悪評を残すことになった事件です。しかし、この度のドラマでは、秀次の被害妄想的自滅行為として描かれていましたね。真相はどうだったのか・・・。まずは、従来の説から紹介します。


e0158128_19341615.jpg まず、秀吉は伏見城を築城し、拾とともに聚楽第からそちらに移ります。秀吉が伏見城に移ると、後を追うように豊臣家重臣たちも挙ってそちらに移り始めます。寂れていく聚楽第に残された秀次。このとき、関白職は単なる「飾り」で、豊臣政権は未だ叔父・秀吉のものであるということを改めて実感したに違いありません。そして自身の立場にも危機感を覚え始めたのか、しばしば奇行をとるようになったといわれます。


 文禄4年(1595年)7月3日、石田三成、増田長盛、前田玄以ら奉行たちが秀次のもとに訪れ、秀吉に対しての謀反の疑いを言い立てます。秀次は懸命に弁明しますが受け入れられず、7月8日、秀次は秀吉に直に釈明すべく伏見城に出向きますが、秀吉との面会は叶わず、「高野山への追放」という厳しい処分を言い渡されます。高野山へ入った秀次は出家しますが、そのまま隠遁生活とはいかず、それから1週間後の7月15日、秀吉の命により切腹して果てます。享年28歳。


 その後、秀吉の秀次に対する仕置は彼ひとりの命にとどまらず、一族すべての抹殺を命じ、秀次の死から半月後の8月2日、京都三条河原にて梟首された秀次の首の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名処刑されます。彼女たちは牛車に乗せられて市中を引き回された後、三条河原へと到着。その変わり果てた秀次の首と対面したのち、次々と惨殺されていったといいます。戦国時代の京都三条河原といえば、処刑場の代表地ともいえる場所で、死刑執行や処刑見物が日常茶飯事のことであったにもかかわらず、このときの秀次妻子に対する処刑は、見物人の中から卒倒・嘔吐する者が相次いだと伝えられます。彼女たちの死骸はその場に掘られた大穴に次々と放り込まれ、その上に四角推の大きな塚が築かれ、頂上には秀次の首を納めた石櫃が据えられました。秀吉はこの塚を「畜生塚」と名付け、道行く人たちへの見せしめとしたと伝えられます。


 以上が従来の「秀次事件」で、わが子可愛さに暴走する晩年の秀吉の狂気として描かれることの多い事件ですね。ところが今回の「秀次事件」は、秀次に愛情を注ぐ秀吉の思いとは裏腹に、秀次自身が被害妄想を膨らませて自滅していくというストーリー。蟄居や切腹の理由も、すべて後付とう設定でした。今までにない解釈で面白い物語でしたが、通説とはあまりにかけ離れていて、三谷さん、ちょっとやり過ぎなんじゃない?・・・と思ったのですが、調べてみると、この設定は三谷さんの完全オリジナルというわけではなく、国学院大の矢部健太郎教授が提唱する新説を下敷きにしているそうです。


e0158128_20022019.jpg 矢部説によると、江戸時代初期に記された『太閤記』に、「切腹命令」の文書に石田三成ら五奉行が7月13日付で署名したと記されていることを指摘し、京都から高野山まで約130kmあり、しかも厳しい登り坂が多く、とても2日で歩くのは不可能だと「13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」としています。さらに、秀吉が同月12日に、高野山の僧・木食応其へ宛てた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されているそうで、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」としています。たしかに、そう言われてみれば・・・ですね。


 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記」文禄4年(1595年)7月16日条に、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とあるそうですが、矢部教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘しており、秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したと説いています。ドラマとは少し違いますが、自ら腹を切ったという解釈は同じですね。


 さらに矢部説では、『太閤記』の「秀次に謀反の動きがあった」という記述は、事態収拾のために秀吉と三成らが作り上げた後付けの公式見解だったのではないか、と推測しています。まさに、ドラマのとおりですね。事ここに至った以上、秀吉の命令で行われたことにしなければ、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねませんから、後付けで公式見解をこじつけたという見方は、十分に有り得る解釈だと思います。


 しかし、であれば、一族皆殺しまで行う必要があったのか、という疑問が浮かびます。ところが、これに対しては時代考証担当の丸島和洋氏が自身のツイッター上で、秀次の嫌疑が「謀反人」である以上、「妻子の処刑はやむを得ないこと」と発言されています。その容疑が事実であれ後付であれ、謀反人の妻子を生かしておくことは、豊臣政権の威光の失墜に繋がりかねない、ということですね。いずれにせよ、惨い話です。


 というわけで、今回の設定は、その真偽はどうであれ、新説に基づいたストーリーだったんですね。よく勉強されているなあと関心します。また、秀吉の好意のすれ違いと、真田信繁、信幸兄弟の好意のすれ違いを合わせて描いていたのは、実に秀逸だと思いました。さすが三谷さんですね。


 ちなみに、生き残った秀次の娘で信繁の側室になったとされる隆清院という女性については、確実な史料に乏しく、真偽は定かではありません。従って、呂宋行きの話も、すべてドラマのオリジナルです。まあ、これはこれでいいんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2016-07-19 19:42 | 真田丸 | Comments(4)  

Commented by heitaroh at 2016-07-20 18:03
まあ、秀次の死因まではそういうこともあったのかもしれませんが、それでも、妻子皆殺しの理由としてはちょっと弱いような。妻子の中には前田利家の娘なんかもいたわけですし。
Commented by ともちゃん at 2016-07-21 08:30 x
矢部健太郎さんは准教授ではなく、立派な教授ですよ☺️
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-07-21 22:16
> heitarohさん

わたしも最初はそう思ったんですけどね。
でも、時代考証の歴史家さんに、「皆殺しは至極当然のこと」と断言されてしますと、そうなのかなあと。
ただ、歴史は深読みしはじめるとキリがないですから、やはりわたしは、通説どおり、モンスターペアレント秀吉の狂気の沙汰だと思いますけどね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-07-21 22:17
> ともちゃんさん

ご指摘ありがとうございます。
わたしが読んだ記事が古かったようです。
早速、訂正させていただきました。

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