山崎合戦のまちを歩く。 その15 「明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮」
シリーズ最終稿です。
羽柴秀吉軍の追撃を受けて勝龍寺城を脱出した明智光秀は、自身の居城である坂本城に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命したと伝わります。
山崎合戦の舞台からはずいぶんと離れますが、ここまできたら、光秀の最期を見届けようと思い、京都市伏見区小栗栖に伝わる光秀落命の地にやってきました。

「明智藪」という名称がついているようです。
付近まで行くと、上の写真ような誘導看板が設置されていて分かりやすかったです。

民家の横の細い道を入っていくと、石碑のようなものが見えてきました。

「明智藪」と刻まれた石碑と説明書きがあります。

よく読んで見ると、「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃された」とあります。
えっ? 光秀は土民に殺られたというのが通説だったと思いますが、「飯田一党」という武士団に殺られたの?

石碑の奥は、まさしくただの竹藪でした。
現在は、近くに民家も学校もある開けた町なので、藪はほんの一角にすぎませんが、たぶん当時は、この辺り一帯が鬱蒼とした藪のなかだったのでしょうね。

近くにある本経寺に、光秀の供養塔があると聞いたので、立ち寄ってみました。

石碑は新しいもののようですが、前の石灯籠は古いもののようです。

また、明智藪から北に500mほど上がったところに、光秀の胴塚と伝わる場所があります。
探すのに苦労したのですが、ぶどう直売店やコイン精米所の並ぶ一角に、ひっそりと墓碑が建っていました。

説明板のようなものが設置されていなかったので、詳細はわかりませんが、墓碑が建てられたのは昭和45年と刻まれていました。
でも、それまでも、きっと地域の人々によって供養されてきたのでしょうね。

最後にもう1か所、明智藪から200mほどしか離れていない場所に、小栗栖八幡宮という古そうな神社があるのですが、帰り道、吸い寄せられるように同地に立ち寄りました。

創建は清和天皇(第56代天皇)時代の貞観4年(864年)と伝えられるそうで、説明板によると、室町時代には社領三十六石と栄えていたそうですが、その後は寂れていたようです。
ただ、そんなことより、由来を読んでみて目からウロコが・・・。

「地頭は飯田左近将監。左近屋敷は、神主で、小栗栖城主で、飯田家の屋敷であり、現在は石垣のみ残る。」とあります。
ここで思い出されるのは、明智藪の石碑にあった「飯田一党」という武士集団。
あの「飯田」は、この「飯田」なんですね。

即座にスマホでググってみると、かつてこの近くには小栗栖城があって、その城主だった飯田氏は織田信長の傘下だったそうで、従って、「本能寺の変」後のこの時点では、光秀にとって敵だったと思われます。
まあ、光秀の最期も諸説あって、なかには生存説なんかもあったりしますから、これもひとつの説として鵜呑みにはできないのでしょうが、ここに本当に敵陣の城があったのなら、十分にある話ですね。
でも、だとすれば、なぜこれほど敵陣に近い道を光秀は通ったのか?・・・という疑問が出てきます。
いずれにせよ、今となっては、真相はまさに藪のなか・・・ですね。
お後がよろしいようで・・・。
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by sakanoueno-kumo | 2016-08-04 16:38 | 山崎合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)