真田丸 第31話「終焉」 ~秀吉の遺言状~
朝鮮での戦が長引くなかの慶長3年(1598年)初夏、床に臥せりがちだった豊臣秀吉の体調はいよいよ悪化の途をたどります。さすがに死期を悟った秀吉は、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、自身の死後の体制固めを懸命に行いはじめます。今回のドラマの秀吉は痴呆がひどくなっているため、それを推し進めたのが石田三成だったという設定でしたね。実際に秀吉がボケていたかどうかは定かではありませんが、それにしても秀吉にとって気がかりなのは、ただただ、まだ6歳の秀頼の前途のみでした。思い余った秀吉は、伏見城に徳川家康を呼び寄せ、自身の死後は秀吉の後見人になるよう懇願します。最も信用が置けない人物を秀頼の最も近くに置き、逆心を封じ込めようとの考えからでしょうが、その約束を家康が守ってくれる保証などどこにもありません。
ドラマで、家康や三成が寄ってたかって秀吉に書かせていた遺言状は、実際に現存するものです。
「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候 五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」
五大老に向けた秀吉の遺言状です。ドラマでは、「いさい五人物ニ申わたし候」という部分と「以上」を、三成があとから書き加えさせてましたね。その解釈でいえば、最初の「五人の衆」は五大老のことで、あとの「五人の物(者)」は、五奉行ということになります。そんな風に読み下したことはありませんでしたが、たしかに、そうとも取れます。現存する遺言状というアイテムを使って独自に解釈し、秀吉の死の局面に際しての政治を描くあたり、さすが三谷さん、秀逸です。
多少コミカルに描いてはいましたが、それにしてもこの遺言状、天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですね。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けている様子は、同じく子を持つ親としては少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のことですから、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙や口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。
この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
その辞世の句は、
つゆとをちつゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
(露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)
実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。
秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。
石田三成の家康暗殺計画は、小説やドラマなどではよく描かれますが、事実かどうかは定かではありません。司馬遼太郎の『関ケ原』では、三成に家康暗殺を進言したのは側近の島左近で、三成がそれを承知しなかったため、左近が単身家康を暗殺しようとしますが、未遂に終わります。今回のドラマでは死に際のおびえた秀吉が三成に命じるという設定でしたね(あの夢枕に立った少年は万福丸でしょうか?)。まあ、それも考えられなくもありませんが、いずれにせよ、秀吉の死に際しての政局が、それほど緊迫した状況にあったことはたしかでしょうね。次回から、その政局が描かれます。
by sakanoueno-kumo | 2016-08-08 21:35 | 真田丸 | Trackback | Comments(4)
私もそうかなあと思いましたが、他に思い当たりませんもんねぇ。
いくら何でもここはもう少し説明しないと。
前田利家が「秀吉が信長の夢を見てうなされた」ということを書いていたように記憶しておりますが、であれば、やはりここは信長様の幽霊でも良かったのでは。
秀吉の死はスターリンの最期と重なりますね。
おそらく、生前に誰か公家に作っておいたもらったか、あるいは後世の創作ではないかと。
もちろん、秀吉ほどの人が辞世の句を残さなかったとも思えませんが、本物は死後の騒ぎでうやむやになって、「あれ?そういえば太閤様の辞世の句はどうなった?」で「これがぴったりやで。太閤はんもきっとそう思いはったに違いない」などということになったと(笑)。
<生前に誰か公家に作っておいたもらったか、あるいは後世の創作>
そう読む歴史家の方々も多いようですね。
たしかに、五大老宛に残した哀れな遺言状を思えば、別人のような悟りの辞世ですよね。