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真田丸 第32話「応酬」 ~石田三成の人物像~

 豊臣秀吉は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(1598年)8月25日、五大老(老衆)として秀吉亡きあとの豊臣政権を担っていた徳川家康前田利家は二人の使者を朝鮮に遣わし、講和を進めてすみやかに兵を撤退させるよう命じます。そして、石田三成、浅野長政、毛利秀元の三人を筑前博多に派遣し、大陸より兵の撤収に当たらせます。


e0158128_19301095.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、この撤収作業がきわめて困難で、釜山に兵を集めて順次渡海を始めたのが11月初旬。しかし、その頃になると秀吉の死を朝鮮も嗅ぎつけており、朝鮮水軍が退路をはばんで襲撃してきます。しかし、李氏朝鮮の将軍・李舜臣の死によって朝鮮方は軍の統制を欠き、撤退軍はようやく退路の難を打開しました。そして12月10日、殿軍の島津義弘が博多に到着したのを最後に、全軍の撤退を完了します。


 このとき、撤収のための船舶の配置などを統括したのが石田三成でした。このときの三成の采配は見事なもので、実に無駄なく的確な仕置だったと伝わります。三成の手腕がとくに発揮されたエピソードですが、しかし、この慶長の役での三成の采配が、加藤清正福島正則黒田長政武断派といわれる諸将からの反感を買い、それがやがて関ヶ原での勢力図へとつながっていくんですね。


清正「わしらが海の向こうで戦ってるとき、おぬしらはこっちで何をしとった!」

三成「後ろで算段をするのも戦のうちだ!」


 たぶん、実際にもこれに似たやり取りがあったのでしょうね。もっとも、現場と事務方の相容れぬ関係というのは、現代社会でも少なからず存在する問題です。事務方はできるだけ合理的に仕事を進めようとしますが、現場は現場でしかわからない不合理の必要性を主張します。これを解決するには、双方が存在意義を認め合うしかないのですが、これは、なかなかできることじゃないんですよね。ましてや、その現場が命を懸けた戦場となれば、なおさらだったでしょう。


三成「徳川が既に動き出しておる。これからの豊臣は我らにかかっておる。おぬしは案外、城造りもうまいし、領内の仕置きも確かだ。ただの戦ばかではない。われらで秀頼様をお支えし、殿下亡きあとの豊臣家をお守りしていこうではないか!」

清正「お前には言いたい事が山ほどある。・・・が、あえて言わぬ。われらで秀頼様をお支えし、豊臣家をお守りしようではないか!」

三成「だから、それはいま、わたしが言った!」


 思わず笑っちゃいましたが、結局何が言いたいかっていうと、同じ「臣家をお守りしようではないか!」という言葉でも、三成が言うと、どこか上から目線の命令口調に聞こえる・・・。そういうことですよね。実際の三成がどういう人物だったかはわかりませんが、司馬遼太郎の小説『関ヶ原』をはじめ、多くの小説やドラマで、似たような人物像で描かれていますね。ひと言多く、人の心を忖度する能力に欠けていて、したがって無駄に敵を作ってしまう性格。実際の三成も、遠からずのキャラだったんじゃないでしょうか。


 秀吉が死ぬやいなや、徳川家康は次第に勢威を強めて不遜となり、六男の忠輝伊達政宗の娘を娶らせたのをはじめ、福島正則蜂須賀家政などの子とも縁組を進めるなど、あからさまな味方づくりを開始します。この目に余る法度違反に対して三成と利家は、慶長4年(1599年)1月19日、家康以外の四大老・五奉行が、家康の違反行為に対して詰問使を派遣し、五大老の席から外すことも辞さないことを伝達します。ドラマでは、伏見城の評定の場で詰問するという設定でしたね。しかし、このときは家康の老獪な対応であしらわれてしまいます。これに毅然として楯突いたのが、三成だったんですね。ここからしばらくは、三成が主役の物語になりそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-08-16 23:59 | 真田丸 | Comments(0)  

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