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真田丸 第35話「犬伏」 ~犬伏の別れ~

 8月後半から仕事が忙しくなり、特に今週は超激務をこなす毎日となり、昨夜、ほぼ1週間ぶりに家に帰り、ようやく大河ドラマを視聴しました。真田一族の物語を語るにあたって、いちばんの見せ場といってもいい「犬伏の別れ」。遅ればせながらの起稿です。

 慶長5年(1600年)6月16日、徳川家康は会津の上杉景勝討伐を掲げて大坂を出陣。7月2日には江戸城に入り、諸大名に上杉攻めに加わるよう要請します。家康は上杉征討にあたって、豊臣家より軍資金二万両と米二万石をもらい、上杉攻めを豊臣秀頼の命というかたちにしていました。豊臣の御旗が掲げられた以上、諸大名はこれに参加せざるを得なくなります。このあたり、家康の政治力の巧みさがうかがえますね。

 一方、家康の上杉征討を知った石田三成は、家康の元に向かおうとしていた大谷吉継を蟄居中の佐和山城に呼び寄せ(ドラマでは、三成が吉継の元を訪れていましたが)、打倒家康の挙兵を持ちかけます。吉継はその無謀を説きますが、三成の決意が固いことを知るや、「わしがおぬしを勝たせてみせる」と言ったかどうかはわかりませんが、三成に同心します。吉継を味方につけた三成は、毛利輝元を大坂城に呼び、秀頼を奉じて挙兵するんですね。

 上杉征伐の要請を受けた真田昌幸、信幸、信繁父子は、家康の元に合流すべく宇都宮に向けて進軍し、下野国の犬伏に着陣します。ここで彼らのもとに、三成挙兵の報せが届きました。これを聞いた昌幸が「早すぎるわ!」と言ったかどうかはわかりませんが、たしかに、三成の挙兵は少し早すぎました。歴史のタラレバはナンセンスですが、もし、三成の挙兵がもう少し遅く、上杉との戦端が開かれてから行われていれば、家康は簡単には引き返せなくなり、歴史はまた違ったものになっていたでしょう。一説には、三成と会津の直江兼続が共謀して家康を挟撃するシナリオだったという見方がありますが、その説に否定的な意見の根拠としては、この三成の挙兵のタイミングを指摘します。電話もメールもない時代ですが、共謀していたのなら、三成の挙兵はもう少しあとだったんじゃないかと・・・。真相はどうだったんでしょうね。

e0158128_02592871.jpg 三成の挙兵を知った昌幸は、7月21日、信幸、信繁兄弟を呼び寄せて密談を行ったとされます。これが、世に言う「犬伏の別れ」を決定した密談ですね。この密談で、真田家は昌幸と信繁が三成方につき、信幸が家康方につくことを決めたとされますが、ただ、この密談の内容は、一級史料では確認することができず、すべて後世の軍記物に頼るしかありません。確かなのは、その日の夜に昌幸・信繁は戦陣を離脱し、上田に向けて帰還したこと、それらの家来たちはあわててその後を追っていったこと、信幸だけが戦陣に残り、24日、家康の元に参陣したことくらいだそうです。でも、それらの事実を見る限り、この密談で兄弟父子が敵味方に別れる決意をしたことは、間違いなさそうですね。

e0158128_02593242.jpg 兄弟父子が敵味方に別れた理由については様々な説がありますが、どちらが勝っても家が存続できるため、というのが、通説となっている理由ですね。実際、合戦時にお家存続のために親兄弟が別れるという話は、他にもたくさんありました。この時代、家の存続というのは、武士にとって何より大切な仕事でしたからね。さらには、信繁の妻は三成方の大谷吉継の娘であり、信幸の妻が徳川家家臣の本多忠勝の娘だったことも、大いに作用したでしょうね。信繁も信幸も、舅への義理は蔑ろにはできないですからね。そうみれば、この密談の結論は、はじめから見えていたといえます。

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 また、密談中に様子を伺いに来た家臣の河原綱家が信幸から水筒を投げつけられるシーンがありましたが、あれは、三谷脚本らしいコメディーシーンに見えましたが、実は、河原家の伝承で残っている逸話です。それによると、投げたのは信幸ではなく昌幸で、投げたものは水筒ではなく下駄だったとか。下駄は綱家の前歯にあたり、彼は生涯、前歯が欠けたままだったといいます。入れ歯もインプラントもない時代ですからね。少々気の毒な気がしますね。

「もし徳川が勝ったならば、俺はどんな手を使ってもお前と父上を助けてみせる!」

 本当にそうなっちゃうんですよね。温厚篤実な人物だったという信幸。弟や父の神出鬼没ぶりばかりが目立つ真田家ですが、真田家でもっとも優れていたのは、実は信幸だったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-11 03:02 | 真田丸 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2016-09-13 18:49
ドラマチックに描かれてますが、息子が二人いれば東西に分かれて家の存続を図り、助命嘆願をする・・・というのはご指摘のようにどこの家でもやっている、当時としては当たり前の話で、従って、おそらく、家康も徳川方の部将も皆、最初から、「はいはい、お約束ね」って感じでわかってたと思いますよ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2016-09-17 23:20
> heitarohさん

そうでしょうね。
ただ、家康が昌幸をかなり目障りに思っていたのは事実のようですから、助命嘆願など受け入れられる見込みは薄かったはずで、そちらはあまり計算になかったのかもしれません。
昌幸の頭のなかでは石田方に分があると観ていたんじゃないでしょうか?
信幸の徳川方は、あくまで保険にすぎなかったんじゃないかと。
やっぱ、保険は大事ですね(笑)。

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