真田丸 第38話「昌幸」 ~二条城会見と真田昌幸の死~
真田昌幸・信繁父子が紀伊国九度山村に流された慶長5年(1600年)12月から、昌幸が死去する慶長16年(1611年)6月までの約10年余りが一気に描かれましたね。この間、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に幕府を開き、その2年後には息子の徳川秀忠に将軍の座を譲り、徳川政権の盤石化を図りました。一方で、慶長8年(1603年)にはわずか7歳の孫娘・千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせ、旧主である豊臣家との関係が良好であること世間に知らしめます。一般に、関ケ原の戦い後すぐに家康は豊臣家を滅ぼすつもりだったように思われがちですが、決してそうではなかったことがわかります。
その家康に豊臣家を滅ぼす決意をさせたのが、慶長16年(1611年)3月38日に行われた家康と秀頼の二条城における会見だったと描かれることが多いですよね。成長した秀頼の器量の大きさとわが息子・秀忠の凡庸さを比較し、秀頼を殺す決意を固めた・・・と。この話自体は後世の創作ですが、たしかに、この二条城会見を境に家康が豊臣家滅亡への謀略をはじめたのは事実で、このとき、家康に何らかの意識変化があったのかもしれません。何よりこの会見に随伴した加藤清正、浅野幸長、池田輝政など旧豊臣恩顧の武将たちが、会見直後にことごとく死んでいったことから、家康の差し金による暗殺説が、当時からささやかれていました。ドラマでも、清正の死去は暗殺説が採られていましたね。これは、現在では歴史家さんのあいだでは邪説とされているのですが、物語的には、そっちのほうが面白いですからね。
で、九度山村での真田父子に目を移します。蟄居生活を強いられた昌幸・信繁でしたが、罪人としての幽閉生活というほどではなく、山狩りや釣りなど、高野山領内であればある程度自由に動き回れたようです。この間、信繁には子供も生まれ、ある意味、平穏で幸福な日々だったともいるかもしれません。ただ、経済的には困窮していたようで、昌幸は嫡男・信之に何度も援助金を催促する書状を送っています。くさっても五万石の大名だったわけですから、わずかな家臣を従えた貧乏暮しは、耐え難い屈辱だったでしょうね。そんななか、昌幸を唯一支えていたのは、家康から赦免されて上田に戻るという一縷の希望でした。
昌幸は信之や浅野長政を通じて赦免嘆願を繰り返し行っています。時期は定かではありませんが、その赦免嘆願は本多正信を通じて家康の耳にまで届いていたようで、それを伝え聞いた昌幸は、「赦免される日が近いゆえ、下山したら一度お会いしたい」と、楽観視した書状を旧知の人物に送っています。しかし、家康は二度も煮え湯を飲まされた昌幸を、決して許すことはありませんでした。
やがて赦免の希望が叶わないことを悟った昌幸は、日に日に衰えていきます。このころ書かれた書状では、すっかり気力を失った弱気な言葉がつづられ、かつての名将の面影はもはやありませんでした。そして慶長16年(1611年)、いよいよ自らの死期を悟った昌幸は、信繁を枕頭に呼び、徳川と豊臣の決戦がはじまった際の秘策を授けたと伝わります。それが、ドラマに出てきた『兵法奥義』ですね。原本は大坂城とともに灰となったと伝えられますが、実在したかどうかは定かではありません。その秘策とは、籠城戦では勝ち目がなく、積極的に討って出て勝負をかけよ、というものでした。ドラマでは、この秘策を聞いて「自分には場数が足りないので自信がない」と発言した信繁に対して、「わしの立てる策に場数などいらん。」と昌幸は言っていましたが、伝承では、この秘策も家康を二度も破った自分の意見ならば豊臣家も従うだろうが、無名の信繁では握りつぶされるであろうと予言しています。で、実際そうなるんですよね。今年の大河ドラマでは、そういった千里眼的予知能力の持ち主はまったく出てきません。そこもいいですよね。
慶長16年(1611年)6月4日、昌幸没。享年65。真田家を近世大名までのし上げた、真田家にとってはまさに中興の祖ともいうべき人物の波乱の生涯が幕を閉じました。
by sakanoueno-kumo | 2016-09-26 18:46 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)

滝川三九郎は出てこないけど。
RES遅くなってスミマセン。
目下、激務の毎日で・・・。
たしかに、言われてみればそうですね。
まあ、わたしにとっても(っていうか、ほとんどの人がそうだと思いますが)、真田家の物語のベースにあるのは真田太平記ですから、そのほうが違和感なく受け入れられます。
でも、三谷さんのことですから、どこかでオリジナリティを出してくるんじゃないでしょうか?