後藤又兵衛基次ゆかりの地をたずねて。 その1 「南山田城跡」
後藤又兵衛基次といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、その又兵衛の生誕地と伝わる姫路市山田町を訪れました。
といっても、ここを目当てに訪れたわけではなく、別の目的でこの道を通ったところ、たまたま「後藤又兵衛」と書かれた幟を見つけ、つい立ち寄った次第です。
こういう偶然を想定して、休日はいつもカメラを持参しています。
ただ、この日はあいにく小雨がパラつく天気で、暗い写真ばかりなのが残念ですが。
看板にあった史跡マップを参考に、「南山田城跡」を目指します。
手前に見える森が、城跡のようです。
城跡といっても遺構などはほとんど残っておらず、現在は公園として整備されています。
公園内は広場になっており、北側から東側の藪のなかに、わずかに土塁っぽい遺構が残されています。
公園内ある古い祠と、城跡の説明板です。
南山田城の築城年代は定かではありませんが、又兵衛の父である後藤基国によって築かれたと伝えられます。
天正6年(1678年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨国に侵攻すると、三木城主・別所長治らがこれに反旗を翻し、別所氏の配下にあった後藤氏は、運命を共にします。
しかし、当時まだ幼かった基国の子・又兵衛は、姫路城代だった黒田官兵孝高に預けられました。
しかし、官兵衛が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を、又兵衛の叔父である春日山城主の後藤基信が拒否したため、後藤氏一族は追放となり、又兵衛も黒田家を去ることになります。
その後は仙石秀久に仕えたといわれますが、確かではありません。
公園の周辺は曲がりくねった道で囲われていて、かつての堀跡を思わせるロケーションです。
ここは明らかに土塁跡でしょうね。
南山田城跡のその後は定かではありませんが、ここから2kmほど北にある又兵衛の叔父・基信の春日山城が秀吉軍によって攻め落とされたとき、共に落城したとみていいのではないでしょうか。
次稿では、又兵衛の父・母が眠る福田寺を訪れます。
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by sakanoueno-kumo | 2016-10-19 22:15 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)