太平記を歩く。 その2 「笠置山・中編」 京都府相楽郡笠置町
前編の続きです。
笠置町産業振興会館の東に見える標高288mの山が、笠置山です。

登山口です。
車でも山頂近くまで登れると聞き、この日は車で登りました。

古道の入口には、古い石碑があります。

車を停めて5分ほど登ると、笠置寺の山門に到着します。
傍らには、「天武天皇勅願所、後醍醐天皇行在所」と刻まれた石碑があります。



笠置寺の歴史は古く、その創建は不明ですが、出土品から見て飛鳥時代すでに造営されていたと考えられています。
木津川の南岸にそびえる笠置山は、古くからの修験道場、信仰の山として崇められてきました。

笠置山全景です。
このあと、このMAPを右回りにめぐっていきます。

向こうに見えるのは本堂の「正月堂」。
その頭上に、巨大な岩が見えます。
笠置山は、こんな巨石が至るところに見られます。

写真では伝わりづらいですが、ド迫力の巨石群です。

日本では、太古の時代から山岳、滝、巨岩、巨樹などの自然物が崇拝の対象とされ、巨岩は磐座(いわくら)などと呼ばれて、神の依代(よりしろ)、すなわち目に見えない神の宿る場所とされてきました。
日本の神道には教祖などはなく、八百万の神ですからね。
山の神、海の神、森の神、水の神、自然を司るすべてのものに神が宿るという信仰です。
笠置山は、そんな巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付き、山中の巨岩に仏像が刻まれ、聖地として崇められるようになったと考えられます。

文殊石と笠置石です。
縁起によると、のちに天武天皇(第40代天皇)となる大海人皇子が、鹿を追って狩りの途中にこの岩上に行き着き、岩から転落しそうになったときに山神に弥勒像を刻むことを誓願して助けられたといいます。
感謝した皇子は、身に付けていた笠を置いたことから、笠置山と呼ばれるようになった・・・と。
手前の十三重塔の鎌倉時代のものと推定され、重要文化財に指定されています。
一説には、元弘の乱の供養塔であるとも・・・。

本堂を見下ろすようにそびえる弥勒石(大磨崖仏)です。
高さ約16メートル、幅約15メートルあります。
かつてはこの表面に弥勒磨崖仏が刻まれていたといいますが、元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いで石の表面が火の熱で剥がれおち、いまは見ることができません。

写真では伝わりづらいですが、現地に行くとその巨大さに圧倒されます。

本堂からさらに奥へすすんだところにある「虚空蔵菩薩磨崖仏」です。
こちらは元弘の乱の戦火をまぬがれ、現在でもその姿を見ることができます。
高さ約12メートル、幅約7メートルあります。

弘法大師(空海)の作とも言われるそうです。

岩と岩の狭い間を通る「胎内くぐり」です。

その説明板。

大人は体を斜めに傾けながらやっと通れる狭さです。
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by sakanoueno-kumo | 2017-01-19 21:06 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)
ちょうどこんな感じでした。
城井谷城には行ったことはありませんが、ここと同じ巨石が集まっているのでしょうか?
巨石の迫力を写真で伝えるのは難しいですが、実際に目の当たりにすると圧巻でした。
これを見た古代の人が、神と崇めたのはうなずけますね。
福岡城も建築の折、石垣に使う巨石を近隣の古墳に求めたため、福岡の大半の古墳が消滅したそうです。
そういう見方もあるかもしれませんが、ここの弥勒石(大磨崖仏)などは高さ16メートルの巨岩ですから、ほぼ5~6階建てのビルほどの岩で、とても人力で設置されたとは考えづらいように思えます。
笠置山全域とその周辺の地質は、白亜紀後期(9700万年~6500万年前)の珪長質深成岩類だそうで、つまり、花崗岩の山ということだそうです。
巨石を人工的に配置したのではなく、巨石でできた山を人工的に活用したのが笠置山なんじゃないかと。