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太平記を歩く。 その18 「楠公生誕地」 大阪府南河内郡千早赤阪村

ここで少し時系列を離れて、楠木正成に関連した千早赤阪村の史跡を巡っていきます。

まずは、「楠木正成生誕地」の伝承地を訪れました。


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その伝承によると、楠木正成は永仁2年(1294年)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分(みくまり)に生まれたといいます。


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しかし、正成の出自については様々な説があり、詳しくはわかっていません。

『太平記』では、楠木氏は橘氏の後裔と伝えていますが、これも、その真偽は定かではありません。

つまり、正成以前の楠木氏のことは、ほとんどといっていいようです。


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現地説明板によると、このすぐ横にある「くすのきホール」の建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が発見され、14世紀のものとみられる出土品も見つかったことから、周囲の中世山城群と合わせて考え、楠木氏関連の建物であったと推定したそうです。


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文禄年間には増田長盛豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以降、楠邸にあった百日紅を移植したという記録が残っているそうです。

また、元禄年間には、領主の石川総茂が保護を加えました。


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現在残る石碑は、明治8年(1875年)、大久保利通によって建立されたそうで、碑文の「楠公生誕地」は、幕末三剣豪のひとりで、明治8年当時、誉田八幡宮の祠官だった桃井春蔵直正の揮毫だそうです。


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幕末には尊皇派の精神的支柱となり、第二次世界大戦前は忠臣の象徴的存在に祀り上げられた正成ですが、戦後は価値観の転換とともにその評価も変わりました。

吉川英治『私本太平記』では、戦前までのイメージとはまったく違う正成像を描いています。

その時代背景によって政治利用されてきた楠木正成。

本人が知ったら、決して気分のいいものじゃないでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-24 02:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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