太平記を歩く。 その22 「寄手塚・身方塚」 大阪府南河内郡千早赤阪村
千早赤阪村森屋地区の丘陵地にある墓地のなかに、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の建武の新政の成立後、楠木正成が元弘元~3年(1331~1333年)に起きた千早・赤阪の戦いでの戦死者を弔うために建立したと伝えられる五輪塔が2基あります。
そのひとつは、味方の霊を弔った「身方塚」、そしてもうひとつは、敵の戦死者を弔った五輪塔で、「寄手塚」と呼びます。

上の写真は「身方塚」です。

総高137.3cmだそうで、五輪塔の下には蓮華の花をかたどった反花基壇を設けています。

そして、こちらが敵方を弔った「寄手塚」。
総高182cmあり、「身方塚」よりひと回り大きなものとなっています。

「寄手」とは、敵軍の兵士のことを指しますが、正成はあえて「敵」という表現を使わず、「寄手」という表現を使って魂を静めたといわれます。
また、味方の兵を弔うための身方塚よりも、寄手塚の方が大きいのも、敵に敬意を表したものといわれています。
これらのことから、楠木正成の人柄の良さをうかがい知ることができると伝わります。
ただ、無粋なことをいえば、これらが本当に正成が建立したものかどうかは、定かではありません。

寄手塚・身方塚から望む景観です。
右が金剛山、左が葛城山です。
五輪塔が建てられた700年前も今も、ここからの眺めはそれほど変わってないんじゃないでしょうか。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-03-03 20:44 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)