太平記を歩く。 その29 「摩耶山城跡」 神戸市北区
神戸市に横たわる六甲山脈のなかで、六甲山の次に標高の高い摩耶山上に、かつて摩耶山城がありました。
ここは、元弘3年(1333年)に播磨国の守護大名、赤松則村(円心)によって築かれた城です。

城跡には徒歩でも登れますが、登山に慣れないわたしは摩耶ケーブルで登ります。

摩耶ケーブルの終点「虹の駅」のある一帯が東の曲輪群だそうです。

虹の駅からの眺望。
神戸港から大阪湾が一望できます。
空気が澄んでいたら、 「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山まで見えるのですが、この日は残念ながら霞んで見えません。

元弘2年(1332年)11月に大塔宮護良親王が吉野で挙兵、続いて12月に楠木正成が河内千早城にて挙兵。
こうした倒幕の動きを受け、元弘3年(1333年)2月、赤松則村(円心)はこの地に摩耶山城を築き、幕府の六波羅勢を迎え撃ちます。
これが、『太平記』にある「摩耶山合戦」です。

『太平記』によれば、大塔宮に従っていた則村の三男赤松則祐が、親王の令旨を携え、父・則村に挙兵をすすめたとされています。
これを受けて則村は播磨から摂津に進軍。
『太平記』には、「兵庫の北に当たって摩耶という山寺ありけるに、まず城郭を構えて」とあり、このとき摩耶山城が築かれたと伝えます。

幕府六波羅軍は5000の兵で摩耶山城を囲みますが、赤松軍は大塔宮によってもたらされた援軍を受けて7000の兵を従え、これを撃破。
幕府軍は敗走します。

この摩耶山合戦の戦勝で勢いに乗った反幕府軍は、同年5月7日に足利尊氏、赤松則村(円心)らによって六波羅に攻め込み、同月20日には新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府はその幕を閉じることになります。
遠く関東の鎌倉幕府の瓦解は、ここ神戸の山中から始まったんですね。

摩耶山城の北側にあった摩耶山天上寺跡は、現在摩耶山史跡公園となっています。
摩耶山天上寺は40年前までこの地にありましたが、昭和51年(1976年)に火災で消失し、より山頂に近い北側に移設されました。
かつては、この地に赤松則村(円心)・則祐親子の五輪塔が建っていたのだとか。

史跡公園内には、建物跡の礎石だけが残されています。

公園内の説明板には、在りし日の摩耶山天上寺の空撮写真が紹介されています。

奇跡的に消失を免れた仁王門です。

摩耶山史跡公園のすぐ西側には、「摩耶の大杉」と呼ばれる六甲山随一の巨木がそびえます。
幹周りは約8mあり、樹齢1000年と言われています。
一緒に写っている身長150cmのわたしの娘と比べれば、その大きさが伝わるでしょうか?
現地の説明看板によれば、約200年前に摩耶山一帯で起きた大水害のときにもビクともしなかったため、その生命力に驚いた人々は神霊が宿っているに違いないと、「大杉大明神」として崇めるようになったのだとか。

残念ながらこの大杉は、昭和51年(1976年)の旧摩耶天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え、現在は枯死してしまいました。
樹齢1000年ということは、「摩耶山合戦」のときにも、すでに樹齢300年の大樹だったんですね。
移り変わる歴史の変遷を見続けてきたこの大杉の姿は、枯死してもなおその存在感を人々に印象づけています。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-03-19 09:58 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)
昨日、新田義貞の鎌倉攻めの際の戦死者の遺骨に対する調査の本を読んだばかりでした。
遺骨の状況から、戦死者が多すぎて一度で片付けられなかったことが窺い知れる、また、死んですぐの遺骨の頭蓋骨には人肉食が疑われる痕跡があったと。
酷い話ですが、大河ドラマには映し出されない現実なのでしょう。
< 遺骨に対する調査の本
むっ・・・難しい本を読まれてますね。
今度は中世を執筆されるとか?
『太平記』に出てくる戦死者の数は、どれもかなり盛った数字だと言われますが、それでも、おびただしい数だったことは間違いないでしょうし、戦国時代よりもさらに、遺体などの始末方法は杜撰だったでしょうね。
戦の本当の醜さは、体験してない私たちには計り知れません。