太平記を歩く。 その30 「赤松城跡(神戸大学キャンパス内)」 神戸市灘区
神戸市灘区の山の手にある国立神戸大学のキャンパスが、赤松則村(円心)の建てた「赤松城」だったという伝承があります。

『太平記』によると、円心は大塔宮護良親王の令旨を持って都から帰った子・赤松則祐の勧めで、一族に奮起を促し、「当国赤松城に馳せ参ぜしむべし」と伝えたといわれますが、その赤松城というのが、ここ神戸大学の敷地だったとの説です。

明治41年(1908年)の発掘調査で遺構や石垣跡が発見され、ここが『太平記』に出てくる赤松城に違いないという郷土史家の意見から、神戸大学構内に「赤松城之址」という標柱も立てられ、昭和7年(1932年)9月には、このあたりの地名も赤松町と名づけられました。
ところが、その後の調査で、実際の赤松城は播磨国佐用郡の苔縄城とわかり、ここにあったのは一王山十善寺の跡であることが判明。
元弘3年(1333年)2月の「摩耶山合戦」の際に、円心はここ一王山十善寺を砦として利用し、六波羅軍によって焼かれたようです。

城跡(砦跡)は大学敷地内では最も高い場所にある経済学部付近だと知り、キャンパス内を歩いてみたのですが、「赤松城之址」の標柱は見当たりませんでした。
あるいは、もうないのかもしれませんね。

神戸大学から見た摩耶山です。
この地を訪れてみて、なるほど、摩耶山合戦に際しては、東の砦として絶好の場所だと思いましたね。
西に摩耶山を見渡せ、このちょうど真南には、六波羅軍が陣を布いた八幡の森が一望できたはずです。

標柱は見つかりませんでしたが、「赤松町」という地名はしっかり残っています。
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by sakanoueno-kumo | 2017-03-24 22:30 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(4)
結構、官有地というのは何かしら、曰く因縁付きの所が多いですよね。
