太平記を歩く。 その32 「五鬼城展望公園」 神戸市灘区
摩耶山の麓にある、「五鬼城展望公園」を訪れました。
かつてここは摩耶山城の砦のひとつだったと考えられています。
摩耶山の登山口に位置し、「摩耶山合戦」に関わっていないはずはないと思い、シリーズに加えました。

「五鬼城展望公園」へのルートは、摩耶山登山道と同じです。

五鬼城の名称の由来は、昔この地を支配していた豪族・五鬼氏からきたものだそうです。
以下、説明板より引用。
五鬼城之由来
昔この地に五鬼氏と云う豪族が住んでいた。祖頃この辺りは昼尚鬱蒼たる大森林に覆われていた。この自然の要塞を砦として外敵のしばしばの襲来にも一度として敗れた事なく、従って一族は益々隆盛を極めて繁栄したものである。当時この付近に住む土着民達の暮しは大変貧しく「病気貧乏ふしあわせ」等で苦しむ人々が多く実に憐れな生活であった、此の姿を見た五鬼氏は五情の戒めを説いて幸せの道として多くの人々の救済に尽くされた。この素晴らしい威徳を讃えて永くこの地の守護神とされたが、今日では僅かに五鬼城の名称のみ残されているにすぎない。
五鬼城講
調べてみましたが、五鬼氏という豪族がいつの時代にいたのか、よくわかりません。
そもそも、この伝承が事実かどうかも定かではありません。

南北朝時代から戦国時代にかけて、志摩国の海を支配した水軍で有名な九鬼氏がいますよね。
「九鬼氏」「五鬼氏」・・・なんか関連があるのかな?
ここ摩耶山周辺も海に近い海運の要地。
あるいは、五鬼氏も兵庫津を支配する水軍だったのでは・・・なんて、これ、すべて私の想像で、根拠はありません。

公園は標高270m付近にあり、神戸市東部から大阪湾にかけて一望できる展望台になっています。

西南の三宮方面の眺望です。

ビルの間に港神戸の象徴ポートタワーが埋もれています。
わたしが子どもの頃は、ポートタワーが神戸でいちばん高かったんですけどね。

真南の眺望です。
遥か彼方に見えるのは、大阪泉南から和歌山にかけてです。

そして西側の眺望、大阪湾が一望でき、その彼方に見える山は、右から「その14」「その15」「その16」「その17」で紹介した金剛山、その左が葛城山、そして「その27」で紹介した二上山です。

拡大です。

ちなみに写真左端に見えるのが、「その30」で紹介した神戸大学キャンパス、その少し右に見える森が、「その31」で紹介した六甲八幡神社です。

神戸大学にズームイン。

六甲八幡神社にズームイン。
こうして見ると、戦場となった位置関係がわかりますね。
赤松則村(円心)・則祐親子はこの地に立って一王山十善寺の配下と連携を取りつつ、八幡の森に陣を布いていた六波羅軍を撃破したわけです。
たしかに、この位置関係を見れば、赤松軍の圧勝の理由がわかるような気がしますね。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-03-29 18:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(6)
改めて、そんな気になりました。
わたしもそんな気がしています。
いまわかっている城跡は、あくまで史料や伝承が残っているものだけですからね。
山城巡りをはじめてから、なんだか、どの山も城跡に見え始めています。

コメントありがとうございます。
この一文に衝撃を受けられたということは、神戸にお住いのお若い方でしょうか?
小学校は神戸の学校でしたか?
であれば、神戸ノートって使ってましたでしょうか?
神戸ノートの百字練習帳に、40年以上前のポートタワーの写真が今も使われています。
「神戸ノート 百字練習帳」で検索してみてください。
昭和40年代から50年代は、元町のポートタワーと三宮の貿易センタービル(26階建)、高層の建物はこの二つのだけでした。
百字練習帳の表紙に、この2つの写真が使われています。

お隣の六甲山では代々六甲修験を四鬼家の方々が取り仕切られていたそうなので、
何か関連はあるのかもしれないですね。
2000年代初頭まで四鬼家のご当主夫妻はご存命だったようです。
https://www.rokkosan-katsuyo.com/kyodoshimap/pdf/b_1_11.pdf
コメントありがとうございます。
四鬼家のことは知りませんでした。
ネットで調べてみたら、唐櫃にある吉祥院多聞寺ゆかりの家だそうですね。
ありがとうございます。
ちなみに、もう少し北の三田藩は、江戸時代、九鬼家の領地でした。
九鬼氏はもとは伊勢の海賊大名だった家ですが、六甲山周辺は、四鬼、五鬼、九鬼・・・鬼だらけですね(笑)。
いま流行りの鬼滅の刃で成敗してもらわねば(笑)。