太平記を歩く。 その37 「滝山城跡」 神戸市中央区
「その8」で紹介した布引の滝の西側にある滝山城に来ました。
場所は、JR山陽新幹線・新神戸駅の裏山です。

滝山城の築城年代は定かではありませんが、京都東福寺の良覚が記した『正慶乱離志』によると、摩耶山合戦から1ヶ月余りあとの元弘3年(1333年)4月、赤松則村(円心)の陣として、ここ滝山城が使われたと記されています。

城跡への登山道は2とおりありますが、この日は先に「布引の滝」を訪れたので、東から攻めます。
標高は316.5m、比高は約250mの山頂にある滝山城への登山道は、ハイキングコースとして整備されているので、藪をかき分けて進むような場所はありません。
ただ、斜面はかなり急で、結構ハードです。

道中から望む神戸市内の眺望です。
目の前に広がるのは三宮の町並み。
神戸市のド中心部です。
このような大都会のすぐ近くに中世の山城跡が残っているというのが、山と海が接近する神戸ならではという気がします。

しばらく登ると、いかにも曲輪跡と見られる削平地が次々に表れます。

ここ滝山城跡の遺構の保存状態は良好で、30以上の曲輪跡が確認されています。

たいぶん上まで進むと、ところどころに石垣跡と見られる大きな岩が見られます。

これなんて、間違いなく石垣跡でしょう。

傾斜がゆるやかになって、尾根伝いになると、いよいよ土塁や堀切などの遺構の宝庫となります。

三の丸下に設置された説明板です。

縄張り図です。

大きな堀切跡です。

立派な土塁跡です。
写真じゃ、なかなか伝わりづらいですね。

三の丸跡と思われます。

そして二の丸跡。
ハイキング客用のあずまやが設置されています。

そして頂上の本丸。
昭和13年(1938年)に建てられた石碑があります。

摩耶山合戦に勝利した赤松軍は、これを好機と捉え、京都近くまで攻め上りますが、そこで今度は逆に幕府六波羅軍に反撃されて後退し、ここ滝山城に立て籠もったそうです。
赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃し、ふたたび六波羅軍を攻撃しますが、またしても敗退。
その後、赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六波羅軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たし、六波羅を攻略するに至ります。
その拠点となったのが、ここ滝山城だったんですね。

その後、滝山城の城主は則村の息子・赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子・赤松光範に戻ったりしたそうですが、やがて歴史の記録からその名が消え、再び滝山城が記録に登場するのは戦国時代、三好長慶の西の拠点として松永久秀が改修したことで登場します。
その後も幾度となく戦いの舞台となり、最期は、織田信長に反旗を翻した荒木村重の花隈城籠城戦のとき、落城したと考えられているそうです。

本丸からは、木が茂って景色が見えません。
たぶん、木樹が枯れた冬だったら、神戸の町を望めたのでしょうね。
ここを訪れたのは5月14日。
森林浴には最適な季節でしたが、景色や遺構の縄張りを見るには、冬のほうが良かったかも。
山城を訪れるのは、真冬がいいですね。

下山して新神戸駅南側から撮影。
写真左側の山が、滝山城です。
700年経った今も、神戸の中心部を見下ろしています。
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by sakanoueno-kumo | 2017-04-08 11:54 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)