太平記を歩く。 その39 「六波羅探題府跡(六波羅蜜寺)」 京都市東山区
大塔宮護良親王や楠木正成、赤松則村(円心)のはたらきに加え、幕府方だった足利高氏(尊氏)の寝返りが決定打となり、元弘3年(1333年)5月7日、とうとう六波羅探題が落とされます。

六波羅探題は現在の京都市立六原小学校にあったとされ、現在はその近くにある六波羅蜜寺に石碑が建てられています。

『太平記』によると、足利軍と六波羅軍の合戦を源平合戦になぞらえています。
足利は源氏、北条は平氏だからでしょう。
六波羅軍は足利軍の猛攻を必死に抵抗しますが、6時間の激戦のすえ、ついに壊滅します。
足利軍は、なおも追いすがる残敵を払いのけ、大宮大路の各木戸を打ち破り、二条大路から八条大路までの七つの大通りを埋め尽くしながら、ここ六波羅密寺に押し寄せました。

やがて、赤松則村(円心)軍、千種忠顕軍も合流し、六波羅探題の館を包囲。
追い詰められた六波羅探題北方の北条仲時は、六波羅探題南方の北条時益とともに、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国へ落ち延びようとしますが、道中の近江国で野伏に襲われて時益は落命し、仲時も番場峠野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺にて天皇と上皇の玉輦を移したあと、本堂前で一族432人と共に自刃します。享年28。
次回は、その蓮華寺を訪れます。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2017-04-13 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)