太平記を歩く。 その44 「佐々木道誉墓所(清瀧寺徳源院・京極家墓所)」 滋賀県米原市
前稿で紹介した道誉桜のある清瀧寺徳源院は、佐々木道誉(高氏)の一族・京極家の菩提寺となっており、歴代の京極家当主の墓所があります。
京極氏は佐々木氏の分家で、道誉はその嫡流でもあることから、京極道誉とも呼ばれます。
道誉の墓は「その41」で紹介した勝楽寺にありますが、ここ京極家墓所にも、一族と共に祀られています。

鎌倉中期に近江を領していた佐々木氏が、六角氏、京極氏、高島氏、大原氏に分かれ、本家に当たる六角氏は、戦国時代、織田信長によって滅ぼされましたが、京極氏は、江戸時代も大名家としてつづき、現在に至っています。
寺は、弘安6年(1283年)に京極家初代・氏信によって建立されたといわれ、寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものだそうです。

墓標の配置図です。
名前の上の四角の中の数字は、何代目かを表しています。
数字のないものは嫡流ではありませんが、一族だそうです。
世襲順に並んでいないのは、もとと別の場所に散財していた墓を、後年ここに集めたとき、順番を気にせずに配置したからだそうです。

上段の始祖・京極氏信を筆頭に、道誉を含む歴代当主の墓碑宝篋印塔が18基並びます。
墓石は、そのほとんどが宝篋印塔です。

これが佐々木道誉の宝篋印塔。
上段の右から4番目にあります。
既成概念にとらわれない「婆娑羅大名」と称されながらも、足利幕府内では評定衆や政所執事を勤め、京極家が室町幕府四職の一家となる基を築いた道誉は、文中2年/応安6年(1373年)、78歳という長寿で死去しました。

あと、全部の墓を紹介していられないので、主だった人物のみ紹介します。
まずは上の写真は初代・佐々木(京極)氏信の宝篋印塔です。

上の写真は、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱にて、赤松邸猿楽観賞の最中、将軍・足利義教と共に殺された10代・京極高数の宝篋印塔です。

下段には、それ以降の当主や分家やらの宝篋印塔14基と、淀殿の妹・初をめとった19代・京極高次の墓石などが整然と並んでいます。

これがその高次の廟です。
幼少期には織田信長に人質としてとられ、成人してからは豊臣秀吉に仕えて浅井三姉妹の次女・初の結婚。
関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、浅井氏の台頭とともに一時期衰えていた京極家を再び勃興させたことから、京極家中興の祖とされています。

そしてこれが、丸亀藩二代藩主となった22代・京極高豊の廟です。
この墓所を作った人物です。
京極家の衰えとともにこの寺も一時荒れていましたが、寛文12年(1672年)、高豊が境内に三重塔(県の指定文化財)を建てて以来、勢力を取り戻しました。
このとき、付近に散在していた墓を一カ所に集めたといいます。
塔の大きさは様々で、京極家の栄枯盛衰を表しているといわれています。
現在、国の史跡および県の史跡に指定されています。
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by sakanoueno-kumo | 2017-04-26 00:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)