太平記を歩く。 その46 「観音正寺~観音寺城跡(前編)」 滋賀県近江八幡市
琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)にやってきました。
この山の山頂付近に観音正寺という大きな寺院があり、その背後には、室町時代から戦国時代にかけて近江国南半部を支配した佐々木六角氏の居城・観音寺城跡があります。
参道入口にある観音正寺全景です。
寺伝によると、推古天皇(第33代天皇)13年(605年)、この地を訪れた聖徳太子のもとに人魚が現れ、「もとは漁師だったが、魚を殺生しすぎてこんな姿になってしまいました。太子さまがお堂を建てて、観音さまをお祀りしてくれれば、この苦しみから解放されます。」と訴えたそうで、その願いを聞き入れた聖徳太子は、千手観音菩薩像を刻み、同地に観音正寺を興したといいます。
にわかに信じがたい話ではありますが、その人魚のミイラと称するものが最近まで同寺に保管されていたそうですが、平成5年(1993年)の火災で焼失したそうです。
ホントかなあ。
参道の崖には、巨岩を天然の祠とした「奥の院」があります。
巨岩に神が宿るとする原始的な磐座信仰は古代からあり、聖徳太子が観音正寺を興す以前から、繖山は信仰の山だったようです。
その点は、「その1」「その2」「 その3」で紹介した笠置山と同じですね。
境内の入口にあたる権現見附の石垣です。
そして観音正寺境内。
露天に立つ仁王像というは、珍しいですよね。
『太平記』との関連は、元弘3年(1333年)に足利高氏(尊氏)ら討幕軍に攻められた六波羅探題・北条仲時が、後伏見上皇(第93代天皇)、花園上皇(第95代天皇)、光厳天皇(北朝初代天皇)を伴って東国に下ろうとした際、ここ観音正寺を両院やと天皇の宿舎に充てられたと伝えられます。
本堂です。
以前の本堂は平成5年(1993年)に火災で焼失し、現在の本堂は平成16年(2004年)に再建されたものだそうです。
本堂横にある石積みです。
いつの時代に積まれたものかはわかりませんが、壮観です。
観音正寺の境内から約300mで観音寺城跡のようです。
観音正寺境内の石垣です。
ほとんど城跡ですね。
観音寺城はその名が示すとおり、観音正寺という大きな寺院と一体型になった山城でした。
この時代、大きな寺院では多くの僧兵をかかえ、時として合戦に参加することもありました。
寺院に求められたのは、戦勝祈願の祈祷と戦力でした。
寺院にとっても、時の権力と結びついて、祈祷と戦功による恩賞としての所領を獲得しなければ、寺を運営していけない現実がありました。
長くなっちゃたので、城跡めぐりは次稿にて。
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by sakanoueno-kumo | 2017-05-04 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)