太平記を歩く。 その47 「観音正寺~観音寺城跡(後編)」 滋賀県近江八幡市
琵琶湖の東岸、滋賀県近江八幡市にある標高433mの繖山(きぬがさやま)山頂にある観音正寺と、その背後にある観音寺城跡をめぐっています。
観音寺城は、標高432mの繖山の山頂に築かれた巨大城郭で、「日本五大山城」のひとつに数えられ、「日本100名城」にも選出されている国の史跡です。
観音正寺境内に設置された観音寺城跡の縄張り図です。
こちらは、駐車場でもらった縄張り図。
この大手石段を登ると本丸跡です。
本丸跡です。
本丸跡の面積は約2000㎡あるそうです。
とにかく広い。
本丸跡を囲む土塁跡です。
本丸西面にある、食い違い虎口跡の石垣です。
後年の枡形虎口のようなものでしょうか。
本丸跡から南に一段下がった二ノ丸のような曲輪跡です。
ここは、平井氏屋敷跡と伝わり、平井丸と名付けられています。
ここも約1700㎡あるそうで、広い曲輪です。
周りには石垣跡が。
何より圧巻なのは、平井丸を南側の高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡の石垣です。
見事ですね。
観音寺城がいつごろ築城されたのかはわかっていませんが、歴史の記録に初めて登場するのは『太平記』で、建武2年(1335年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)方の北畠顕家軍の進攻を防ぐため、足利方の六角氏頼が籠もったという記述があり、その頃にはすでに存在したことがわかります。
ただ、このときは、まだ本格的な城郭ではなく、臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられています。
また、室町幕府樹立後、足利尊氏と足利直義兄弟が対立した観応の擾乱の最中の観応2年(1352年)9月には、近江にて直義の兵が南朝と連合して尊氏方に属していた佐々木道誉や六角氏頼・直綱兄弟らを打ち破り、敗れた道誉らは、当時、「佐々木城」と呼ばれたここ観音寺城に逃げ込み、籠城したと伝えられます。
以後、幾度となく戦火に巻き込まれ、応仁の乱では3度も観音寺城の攻城戦が行われています。
平井丸からさらに一段下がった三の丸のような曲輪跡です。
ここは、池田氏屋敷跡と伝わり、池田丸と名付けられています。
池田丸の面積は約2700㎡だそうで、本丸より広い最大の曲輪です。
城の最南端に位置し、本丸の御屋形へ通じる城戸口になっていたと考えられています。
池田丸の周囲も、土塁と石垣跡が見られます。
平井丸より石が小さめなのが特徴です。
石垣が積まれた時代が違うのかもしれませんね。
そして、池田丸の南側を下ると、大石垣跡があります。
天然の岩のようにも見えますが、石垣跡なんですかね。
大石垣跡からの南側の眺望です。
最後に、観音寺城の東の端に一郭独立したような形である府施氏の居館、淡路丸跡です。
広さは東西43m×南北50mの規模があり、周囲は土塁と石垣跡が残っています。
観音寺城は繖山全体に郭をめぐらせた、中世の山城としてはきわめて突出した規模を持っています。
正確な数はわかりませんが、1000ヵ所以上の曲輪があったとみられ、その多くが石垣で囲まれていたのではないかとみられています。
城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、近世城郭に先駆けとなった織田信長の安土城の築城以降とされていますが、観音寺城は本丸部分だけでなく山全体に石垣が配置されている点も注目されています。
ちなみに、この繖山の西に伸びる支尾根先端部に安土城があります。
戦国期には六角義賢・義治親子の居城となりますが、永禄11年(1568年)の織田信長上洛の際、支城である箕作城と和田山城が落とされるとそのまま放棄され、その後、安土城が築城されると、その役目を終えたかのように観音寺城は廃城となりました。
とにかく圧巻の遺構の数々で、さすがは日本五大山城に数えられる名城でした。
最後に、日本100名城スタンプをアップします。by sakanoueno-kumo | 2017-05-05 00:17 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)