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太平記を歩く。 その52 「名和神社」 鳥取県西伯郡大山町

「その50」で紹介した御来屋漁港から800mほど南にある名和神社を訪れました。

ここは、その名のとおり、名和長年を主祭神とした名和一族以下42名を合祀した神社で、「建武中興十五社」の一社です。


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名和長年は言うまでもなく、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を助け、一族郎党を率いて船上山に立て籠もり、天皇方を勝利に導いた功臣です。


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入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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『太平記』巻7「先帝船上臨幸事」では、後醍醐天皇と名和長年の出会いを、次のように伝えます。


さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。

六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ」とぞ語りける。

忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申」とぞ被仰たりける。

名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。

「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。

俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。


ちょっと長いですが、以下、要訳すると、


後醍醐天皇を乗せた船が伯耆国は名和湊に到着すると、さっそく六条少将千種忠顕朝臣が舟を降り、「このあたりに弓矢の名手と知られる者はおらぬか?」と尋ねたところ、道行く人が立ち止まって、「このあたりでは名和又太郎長年という者が一番でしょう。彼はそれほど有名な武士ではありませんが、裕福で一族も多く、皆からも信頼の厚い者です」と答えました。

忠顕は名和長年について詳しく聞き、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と申し渡しました。

このとき長年は一族らと共に酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れに思案がまとまらず黙っていました。

すると弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは名誉と利得の二つです。われらありがたくも先帝のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も迷うことなくお受けするべきです」と進言し、これを聞いた長年はじめ一族ら二十余人全員が賛同。

「では早速合戦の用意をしよう。きっと追手勢も近くまで来ているだろう。長重は先帝をお迎えに行き、すぐ船上山に登れ!」と言い捨てるや、鎧に身を固めて走り出すと、一族の五人も腹巻を取って身に着けながら、高紐を締めて共に先帝をお迎えに行きました。

しかし、突然の出来事だったので御輿などの用意もなく、長重が身に着けている鎧の上に薦で編んだ筵を巻きつけ、帝を背負って鳥の飛ぶような速さで船上山に登りました。


後醍醐天皇と長年ら名和家の出会いは、突然の出来事だったようですね。

その後、船上山の戦いに勝利した長年は、後醍醐天皇帰洛の際の護衛も務めて、幕府滅亡後に後醍醐天皇によって開始された建武の新政においては、伯耆守に任じられた。


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江戸時代はそれほど大きな神社ではなかったようですが、明治16年(1883年)に旧社を新しく建て替え、鳥取県内でも最大級の神社の規模となります。


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現在の社殿は、国粋主義の盛んな昭和10年(1935年)に建てられたものだそうです。


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説明板によると、境内は名和家の米蔵があった場所だそうで、合戦の際にこれを焼き払ったため、今でも神社の裏から焼き米が出て来るそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-16 22:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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