太平記を歩く。 その115 「瓜生保戦死の地・墓所」 福井県敦賀市
前稿で紹介した杣山城の城主・瓜生保が戦死したと伝わる地を訪れました。
ここは、杣山城跡から20kmほど南下した場所で、すぐ近くに「その110」で紹介した金ヶ崎城跡があります。
戦死の地と伝わる場所には、「贈正四位瓜生判官保公戦死之地」と刻まれた石碑と説明板が。
瓜生保が戦死したのは延元2年/建武4年(1337年)正月12日、金ヶ崎城に籠る新田義貞軍を援護すべく5千の兵を率いて杣山城を出た瓜生保は、あともう少しで金ヶ崎城にたどり着くという樫曲地区で、足利方の今川頼貞軍2万と対峙することとなり、激戦のすえ弟の義鑑と共に討死したと伝わります。
その説明板です。
横にはお決まりの忠魂碑が。
戦死の地の裏山には、瓜生保の墓があると知り、登ってみることに。
山道を登ることに約10分。
墓碑らしき石柱が見えます。
山道の少しだけ開けた場所に墓碑が一基だけあり、「瓜生判官保之墓」と刻まれています。
延元元年/建武3年(1336年)10月、金ヶ崎城に入った新田義貞から援軍要請を受けた瓜生保は、一旦はこれに応じますが、その直後に義貞討伐命令の綸旨が保のもとに届くと、身を転じて足利方に味方し、斯波高経、高師泰の軍勢に所属して金ケ崎城を攻めます。
しかし、保の弟達はこれに賛同せず、瓜生一族は分裂の様相を呈します。
ところが11月になって、その綸旨は足利尊氏が送った偽物だと発覚。
すると保は、またまた身を転じ、新田軍に与することを決めます。
このあたり、優柔不断な人物のようにも思えますが、都から遠く離れた田舎武将ですから、中央での政情など疎かったでしょうし、綸旨が届くなんてことなど経験がなかったでしょうから、右往左往するのは無理もなかったでしょうね。
以後は新田軍に味方してたびたび足利方の軍勢を蹴散らしますが、冒頭で述べたとおり、年が明けた延元2年/建武4年(1337年)正月12日、この地で落命します。
この墓は明治44年(1911年)に瓜生家の末裔の方が建てたものだそうです。
新田義貞の北陸落ちに巻き込まれなければ命を落とすことはなかったでしょうが、歴史の名を残すこともなかったでしょう。
瓜生保にとっては、どっちが本望だったのでしょうね。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2017-09-01 22:39 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)