おんな城主 直虎 第38話「井伊を共に去りぬ」 ~武田信玄死去~

 三方ヶ原の戦い徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。


 ドラマでは突然死のように描かれていましたが、通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。


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 信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。

 ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。ドラマの信玄が吐いた血は真っ赤でしたね。ということは、結核でしょうか? でも、だったらあんなに寸前まで元気なはずがないですし、少なくとも遊び女を抱くような体力はないような・・・。やっぱ、寿桂尼の呪いだったのでしょうか。あの局面で寿桂尼が床に入ってきたら、誰でも卒倒して血を吐くかもしれません(笑)。おお、コワっ!


 信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、ドラマではすぐに情報が飛び交っていましたね。実際、当時も信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康上杉謙信織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、ドラマで言う高瀬のような間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。


 信玄が病没する前後の井伊谷については、詳しいことはわかっていません。家康は信玄の死の翌月には早くも駿河侵攻久能、駿府などを侵していますから、おそらく井伊谷も徳川領となったことでしょう。この間の井伊直虎の動向も定かではありません。井伊家が歴史の表舞台に復活するには、いま少し時間を要します。その最初の記録が、天正2年(1574年)に行われた井伊直親十三回忌でした。その話は次回の稿で。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-25 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(13)  

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Tracked from Coffee, Ciga.. at 2018-03-12 19:02
タイトル : 『おんな城主直虎』、また面白くないのを我慢してみる破目に..
皆さんこんばんは。今回は去年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の感想シリーズということで、第36~40回までの感想を書きます。まずはあらすじ。今川氏真(尾上松也)と徳川家康(阿部サダヲ)が和睦したことで小康を迎えた遠江。近藤康用(橋本じゅん)を看病することで信頼... more
Commented by ZODIAC12 at 2018-08-27 19:41 x
信玄の死因の真相はよく分かりませんが、当人が死んだ事が案外早くバレてるものなのですね、インターネットやメディアの存在しない時代でも。
やはり戦国大名は下手すれば現代のCIA以上に、情報収集に力を入れてたのかも知れません。


記事内に貼られている画像は、従来は武田信玄の肖像画と伝えられて来ましたが、どうも別人の肖像画だと判明したみたいですね。誰だかは忘れましたが。


中井貴一主演のドラマは、OPテーマ曲が歴代大河ドラマの中では一番の気に入りです。冒頭のあの疾走感と勇壮感の溢れる、吹奏楽の音色とメロディが。


巷間ではよく、信玄が後十年は長生きしていたら、「天下を獲っていただろう」「信長に武田家が滅ぼされる事はなかっただろう」とか言われてますよね。
けれどそういった信玄ファン、武田贔屓の人たちには気の毒ですが、「残念ながらそれはなかった」としか言い様がありません。
それは敗者への同情に基くただの判官贔屓でしょう。つまりただの感情論に過ぎない、と思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-08-27 21:25
> ZODIAC12さん

肖像画については、おっしゃる通り別人だったとされていますが、あえてこの肖像画を使用しました。
わたしにとっては、信玄はやはりこの顔です。
このドラマのマツケン信玄も、この肖像に寄せたメイクになっていましたし(笑)。
頼朝にしても尊氏にしても、いきなり別人だったと言われても、子供の頃に植え付けられたイメージをそう簡単に払拭できないですよね。

わたしも、信玄にしても謙信にしても、「天下を獲っていただろう」という言うのは後世の希望的妄想だと思います。
幕末の坂本龍馬や高杉晋作が、明治の世まで生きていれば云々というのと同じですね。
残念ながら、信玄も謙信も龍馬も晋作も、志半ばで死んだからこそ後世に英雄化した虚像であることは否定できません(すべてとは言いませんが)。

昨今、坂本龍馬や武田信玄の名前が教科書から消えるという話が話題になっていますね。
少し残念な気がしないでもないですが、たしかに、島津義久や尼子経久なども教科書には載っていないですし、信玄も、同じく地方史レベルの武将に過ぎなかったということでしょうね。

ところで、先日よりたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
貴ブログにもコメントを残そうと思ったのですが、わたしは漢詩にはまったく明るくなく、コメントするだけのスキルがありません。
いただいたコメントへのRESだけになっていることをご容赦ください。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-05 18:21 x
あ、いえ、どうか御気になさらず。
当方の【雑記・徒然】という書庫(カテゴリー)には、【自作和歌】と銘打った記事も数本ありますが、和歌にも関心がなければ結構です。
そして当方は新記事ばかりを対象にしている訳ではありませんので、どんなに古い記事でも遠慮なく書き込んで欲しいと思っています。


信長と比べると信玄・謙信たちはローカルレベルでの英雄であって、天下を獲れたりとか、新時代を築けるようなタマではなかった、という事です。
上で言った「感情論、判官贔屓に過ぎない」の理由は、次の要因です。


◆信玄・謙信は経済政策・商業政策の感覚が古い。

◆信玄・謙信の軍は信長のと違って常備軍(常設軍)ではない。

◆信玄・謙信は旧時代の権威(室町幕府・宗教勢力)や利権とくっ付き過ぎて、新時代に対する展望が欠けていた。


以上です。つまり信玄・謙信は一地方だけでなく、天下の民衆の支持を得られる政策を取らなかった事、旧来の手垢に塗れた権威に頼り過ぎて、新時代に相応しい在り方を意識していなかった事、そして天下を獲る為に必要な軍制改革を怠った事、これらが信長との決定的な差と言えるでしょうか。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-09-05 21:42
> ZODIAC12さん

<信長と比べると信玄・謙信たちはローカルレベルでの英雄>

わたしもそう思います。
わたしは、貴兄のようにそれを論理的に説明できませんが、ちょっとロマンチックに言えば、わたしは、「歴史の必然性」というのを結構信じています。
歴史的事象は、すべて必然的に起こっている。
だから、天下人は必然的に天下人になっているだろうし、天下を獲れなかった人は、どう歴史が回転しても天下は獲れなかっただろうと。
よく、もし本能寺の変が起こらなかったら・・・といった話題が出たりしますが、信長は殺されるべくして殺されたと思いますし、もし、光秀が殺らなくとも、秀吉か勝家か、誰かがやっぱり信長を殺していただろうと。
歴史って、案外そんなもんじゃないかと思うんですね。
別稿の池田屋事件の稿にいただいたコメントで、池田屋で命を落とした志士たちは、そういう役回りだったとお答えしましたが、同じ考えです。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-26 18:32 x
ここからは記事論旨から大分逸れるかと思いますが、他に適当な記事も見当たらなかったので、どうか御容赦下さい。


>>歴史の必然性<<

実際はその通りなのかも知れませんが、何でもかんでもそれの一言で済ましてしまいますと、あまりにも実も蓋もなくなってしまいます(笑)。
だからそれは措いて、私がすぐ上のコメントで言った、常備軍に関連する事について、私なりに論理的な説明を試みてみますと、キーワードは「シフトチェンジ」でしょうか。すなわち・・・・


❖重農主義経済から重商主義経済へのシフトチェンジ

❖封建軍(農民兵主体の軍)から常備軍(常時雇いの傭兵軍)へのシフトチェンジ

❖兼業(パートタイム労働)から専業(フルタイム労働)へのシフトチェンジ

❖封建体制から中央集権体制へのシフトチェンジ


これらが天下統一を成功させる為の重要な鍵と言えるでしょうか。これは日本に限らず、中世ヨーロッパや東周時代(春秋戦国時代)の支那でも同様です。
以下のように自問自答してみて辿って行くと、その根本原因に突き当たります。


Q.何故天下がいつまで経っても乱れているのか?

A.天下を一本に纏められる程の強い権力を、誰も持ってないから。

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Q.何故それだけの強力な権力者がいないのか?

A.軍隊が弱いから。天下を鎮められるだけの強力な武力がないから。

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Q.何故軍隊がそんな弱いのか?

A.どの大名の軍隊も、軍事活動する時期が極めて限られているから。だから長期間に亘って、集中して活動が出来ないから。

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Q.何故軍事活動する時期がそんなに限られているのか?

A.どこの軍隊も兵士の圧倒的大多数が、元は領内の農民ばかりだから。
農民たちに戦ばかりさせて農作業をさせないでいると、領内の田畑が荒れて、領内が飢餓状態に陥るから。そうなったら戦どころじゃなくなる。
だから否応なしに軍事活動が可能な時期は、農閑期に限定されるので、いつまでも戦わせる訳にも行かない。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-26 18:33 x
と、一旦はここで区切ります。つまり信玄・謙信たちの兵は、こういう農民兵主体の封建軍だった為に、長期戦が不可能だったのです。

だから五回にも亘って繰り広げられた「川中島の戦い」なんて、まさにそれの表れな訳ですよ。
そんなに長引かせておきながら、とうとうハッキリとした決着が付けられなかったのは、どちらも季節に左右される農民たちが兵士だったからです。
特に謙信の本拠である越後国なんて豪雪地帯ですから、冬は雪のせいで進軍出来なくなりますし。

さて、ここで新たな設問を設定します。



Q.ではどうすれば季節に関係なく、軍を動かせられるようになるのか?

A.軍の主体を農民兵中心から、専業兵士中心に切り替える。
農民は農業に専門的に従事させ、戦の事は専業の兵士たちに任せる(すなわち兵農分離の実践)。
そうすれば季節に関係なく、軍を動かしたいと思った時に、いつでも動かせるし、兵士たちは戦の事以外に何も煩わされる事もないので、いつまでも従軍させる事が出来る(すなわち常備軍の創設)。

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Q.そんな利点があるのなら、何故誰もそれ(兵農分離、常備軍の創設)をやらないのか?

A.少数の親衛隊規模ならともかく、軍団規模の将兵たちを常時雇い続けるとなると、農民兵主体の封建軍よりもずっと莫大な経費が掛かる。
どの大名もそこまでの財力がないから。

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Q.何故誰もそれだけの財力がないのか?

A.経済を農業経済に頼っているから。
各領内の歳入が租税一本とかでは、年内に収入出来る時期が決まっているし、気候によってその年の豊作・不作が左右される。
つまり農業経済(重農主義)では根本的に安定せず、たとえ豊作だったとしても、減税政策を施したとしても、さほど豊かな収入が見込めない。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-26 18:36 x
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Q.ではどうすれば農業経済よりも安定してる上に、農業経済よりも豊かな財力を築けるか?

A.商業や商人階層を保護し、領内を自由経済政策で活性化させる。
ギルドみたいな存在の力を制限し、自由経済活動の妨害をさせない。
商業で得た売上の税を軽くし、経済全体を潤し、領内を豊かにする(すなわち楽市楽座の実践)。
商業による歳入(売上から徴収した税)は、農業と違って季節に関係なく、年間を通して常時得られる。
それにより、農業経済とは比較にならない程の莫大な富を得られて、常備軍を創れるようになる。



ここで再び区切ります。

信長は一代であそこまで成長した位ですから、戦を徒に長期化させる事がなく、決着を付けるのが本当に早かったですよね。
それもこのように築いた常備軍という下地があればこそ可能な話ですよ。川中島での信玄・謙信とは対照的です。
やはり天下を獲るには常備軍でないとダメだという事です。

次回では農民兵主体のアマチュア軍隊である封建軍と比べて、職業兵士たちから成るプロフェッショナルの常備軍の何が優れているのか、思い付く限りそれらの要因を列挙してみます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-09-27 02:13
> ZODIAC12さん

見事な分析ですね。
私もかねてから、信長台頭の最大の理由は、兵農分離にあったと思っています。
信長以外にも兵農分離に着想した武将はいたかもしれませんが、兵と農を分離してしまえば、たしかに農繁期の兵力に制約はなくなる反面、農民は戦に参加しないわけですから、絶対的な兵力は過小になるわけで、その時点で、この案は机上の空論となっていたのでしょう。
ところが、信長は空論を現実にする術を得ていた。
まさしく天才ですね。
その意味で、わたしは信長が天下人の階段を上っていったのは歴史の必然だったと思うのですが、しかし、上り詰める寸前で引きづり降ろされたのもまた歴史の必然。
天才信長には違う意味での欠陥があったんですね。
秀吉は、信長のビジョンを踏襲しただけの人物だったと私は思っているので、決して信長のような天才ではなかった。
しかし、信長にはなかった天下人の資質を持っていたんですね。
だから、秀吉の天下もまた、歴史の必然だったといえます。
私がいう歴史の必然とは、決して神が与えた運命的なものではなく、ちゃんと裏付けがあっての必然です。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-29 14:17 x
評価して下さり、ありがとうございます。

sakanoueno-kumoさんの言われる「歴史の必然性」とはそういう意味でしたか。てっきり予定説的な意味かと思ってました。
すなわち最初から全てがガッチリとプログラムされた、絶対不可避な固定的なもの、というニュアンスかと。



>>農繁期の兵力に制約はなくなる反面、農民は戦に参加しないわけですから、絶対的な兵力は過小になる<<

ああ、言われてみれば確かに。そこまでは気付きませんでした。



さて本題ですが、常備軍が封建軍と比べてどう優れているのか?を以下の通り、思い付く限り列挙してみました。


①基盤となる財力が、封建軍とは比較にならない位に豊富にある。


②上記①に伴い、将兵たちは他の事を気にせず、軍事だけを専門的に行える。
すなわち他事に煩わされる事もなく、軍事作戦に全力集中が出来るので、比較的早く決着が付けられるようになる。


③上記①に伴い、軍は良質の武器や装備を潤沢に揃えられ、優秀な人材を多く召し抱えられる。


④上記①に伴い、末端の兵卒に至るまできちんと報酬が支給されているので、攻め込んだ先での略奪に頼らずに済む。
もし将兵が軍紀違反を犯せば、遠慮なく処罰する事が出来る(武田・上杉の兵は、末端の兵士は現地での略奪で賄っていたのに比し、信長は「一銭斬り」とかの逸話でも知られるように、乱暴狼藉を働いた兵士を容赦なく厳罰に処している)。


⑤上記①②に伴い、軍全体が季節に関係なく、補給の続く限りは、時期も無期限に活動出来る。


⑥上記②③に伴い、将兵たちの専門的な軍事能力が、封建軍とは比較にならない程に精度が上がる。


⑦上記④の事柄に伴い、現地住民からの恨みを買わずに済むし、支持を得られ易くなる。
それにより占領先での統治が比較的円滑に進む。


⑧常備軍なので、平時でも軍を解散したりしない。
すなわち有事の時にいちいち招集する手間が省け、常時いつでも動かせる態勢となっている(封建軍は戦がある時だけ軍を招集し、戦が終わったら解散させる)。


⑨上記⑧に伴い、戦がない時は野盗化しがちな傭兵を、野放しにする事なく食わせて行けるので、治安の悪化を阻止出来る。軍で雇い続けられる限りは、軍律の統制下に置く事が出来る。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-29 14:24 x
⑩常備軍は完全に君主に直結し、指揮命令系統が君主の一元管理下に置かれているので、雇用主である君主以外の命令は聞かない。
よって謀反を企む臣下に兵権を握られる事がなく、逆に臣下たちを抑え、強力な統制を布く事が出来る(「本能寺の変」で明智光秀が率いた軍団はあくまで光秀の私兵団であり、信長直属の軍団ではないのでこの限りではない)。


以上列挙した要素を持つ常備軍があれば、封建軍を率いてる他の諸侯が太刀打ち出来なくなる程の、圧倒的な軍事力の差が生じるので、常勝無敗も夢ではなくなります。



これらは中世から近世へ移行しようとする時期のヨーロッパでも概ね事情は同じでした。
ヨーロッパの俗に「絶対王政」と呼ばれる状態は、この常備軍が土台になってます。

国王などの一国の君主たちは、当初から絶対的な権力を握ってた訳ではありません。当初は他の封建諸侯と同じでした。
それら封建諸侯たちの中の第一人者、首席、取り纏め役、諸侯会議の議長といった程度の弱い存在でした。

国王は王冠や玉座という権威があるので、一応表面的には諸侯たちによって君主として立てられているものの、実力(軍事力、経済力)は、臣下の諸侯たちとは五十歩百歩で大差なかったのです。

何せ国王が直接統治する領内も、臣下の諸侯たちが統治する領内も、その経済システムが同じ重農主義であり、歳入を同じく租税に頼っていました。
そして軍の兵士も騎士以上に、領内の領民たちが大多数だったというのも同じ事情でした。
だから国王と諸侯の違いと言えば、「王冠を被っているかいないか」「玉座に坐っているかいないか」の違いだけでした。

国王はそんな封建諸侯連合(それもかなり緩やかな)の盟主という存在に過ぎず、中には国王を上回る実力を持った諸侯もいたりしました。
だから御輿に担がれて、その権威を利用されがちな、意外と弱い存在だったのですよ、中世時代までの国王たちは。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-29 14:27 x
臣下の諸侯たちとの間に圧倒的な実力差がなかったので、いくら国王とは言っても、諸侯たちに対し頭ごなしに命令など出来ませんでした。
それが上記で列挙した過程を経て、諸侯たちの実力に特に変化はなくとも、国王の実力が大幅に向上した事で、諸侯の実力が相対的に弱体化して行きました。

それを元に国王がその強大な軍事力を背景に、行政・軍事・司法の権限を諸侯たちから徐々に取り上げて行き、それらの権限や命令系統を、国王を頂点とした一元管理として行きました。
そうする事で、諸侯が下剋上やクーデター、その他好き勝手な行動を起こしたくとも起こせなくなってしまい、諸侯は国王に対して否応なしに服従せざるを得なくなって行きました。

つまりは権力の主体が複数並び立っていて、権力の出所がいくつにも分散しているようでは、国力が削がれてばかりなのでダメだという事ですね。
だから権力の主体を分かり易く一本化し、統一国家を作らねばならないのです。
以上が粗雑で簡略化した説明ですが、これがヨーロッパ諸国の絶対主義、絶対王政とか呼ばれる、封建体制を脱して中央集権体制が成立する、大まかな過程でしょうか。



フランスなんかは特に、宿敵イギリスと英仏百年戦争を戦い抜いた事で、絶対王政を築きました。
イギリスは逸早く常備軍を創設していたので、当初常備軍を持たなかったフランスは、イギリスに連戦連敗でした。しかしどうにか国を奪われずに持ち堪えられました。

長く戦乱が続いた事でフランスは、諸侯たちがそれぞれ独立した状態で好き勝手な事ばかりしていてはダメだという事、国全体が国王を中心として、一本に纏まらなくては効率が悪く、国全体も発展せず、戦争にも勝てないという事を学びました。
それで最終的にはどちらの国も全体的に、階級の上下を超えた一体感、同じイギリス人同士、同じフランス人同士という最初の国民意識、同胞意識、連帯感等が生じて、後世の近代国民国家の原型が出来上がりました。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-29 18:31 x
英仏百年戦争終結後に、両国ともそれぞれ国王を中心とした中央集権化が大きく進み、フランスにも常備軍が正式に創設されました。
以降はそれがキッカケで、イギリスとフランスは「絶対王政」とも呼ばれる時代を到来させ、他よりも早くから近代的な国民国家の最初の基礎を築けました。

百年戦争を境に、英仏両国は他のヨーロッパ諸国との国力に差を付けて、一躍ヨーロッパの強大な軍事大国(列強国)へと成長発展しました。
英仏両国は後世の帝国主義時代でも突出した存在として、その存在感を見せ付けましたが、その基礎工事は英仏百年戦争を戦い抜き、いち早く封建体制から脱皮し(100%ではありませんが)、中央集権体制を築く事に成功した、というのが大きな要因であります。


以上語った事はヨーロッパに限らず、中央集権体制を築いた国なら、概ね共通しそうな事柄です。
ただ成立過程が全ての国に100%ピッタリ当て嵌まるかというと、やはり国ごとに若干の差異があります。
だとしても細かい違いを無視して大雑把に要約すれば、大体こんな感じで合っていると思います。



以上ですが、この一連の話、解り難かったでしょうか?
長々と記事から逸れた話をしてしまい、どうも失礼しました。<(_ _)>
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-09-30 13:09
> ZODIAC12さん

長文、ありがとうございます。
コメントというより論文の域ですね。
わたしは、世界史にはあまり詳しくないのですが、封建制から中央集権制への成り立ちは、概ねどこの国でも同じだったということですね。
もともと国家というもの自体が戦争をするために成立してきた集合体ですから、その変遷も同じような道をたどることになるのでしょう。
これも、歴史の必然といえるかもしれませんね。

ただ、日本の場合、長い鎖国状態で封建制の脱皮が遅れましたから、その後の中央集権化は自然発生的なものではなく、多分に力技で急速に作り上げた突貫工事のようなものでしたから、そのツケが昭和の敗戦につながったとも言えるかもしれません。
ものすごく大雑把な言い方ですが。

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