太平記を歩く。 その139 「吉野朝宮跡」 奈良県吉野郡吉野町
「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から西側を望む台地に、南朝妙法殿という塔のような建物が見えるのですが、このあたりが、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開いた吉野朝廷、いわゆる南朝が営まれた皇居跡と伝えられるところです。
皇居跡の台地には、「吉野朝宮址」と刻まれた大きな石碑があります。
延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山の吉水院に身を寄せて仮の皇居としました。
しかし、吉水院では手ぜまだというので、蔵王堂近くの広い寺をということになり、この地にあった実城寺を皇居と定めて、寺号を金輪王寺と改めました。
以後、南北朝が合体する元中9年(1392年)閏10月までの57年間を、南北朝時代と呼ぶようになります。
後醍醐天皇はこの皇居で、京都回復の方策をいろいろめぐらしますが、天下の形勢は南朝に厳しく、また、身近に仕える公卿たちも次々と死んでいき、延元4年(1339年)8月15日、第7皇子義良親王に皇位を譲って後村上天皇(第97代天皇・南朝2代天皇)をたてます。
以降、吉野の南朝は3代続き、最後の後亀山天皇(第99代天皇・南朝4代天皇)が、北朝を擁護する将軍足利義満の講和を受け入れて、57年間続いた皇室の分裂は1つに戻り、吉野朝は幕を閉じます。
皇居跡には、南朝4代天皇の歌碑があります。
まずは後醍醐天皇御製
袖かへす 天津乙女も思ひ出ずや 吉野の宮の昔語りを
続いて後村上天皇御製
吉野山花も時えて咲きにけり 都のつとに今やかざさん
そして長慶天皇(第98代天皇・南朝3代天皇)御製
わが宿と頼まずながら吉野山 花になれぬる春もいくとせ
その横が、後亀山天皇御製
見しままに花も咲きぬと都にて いつか吉野の春を聞かまし
時代は下って江戸時代、金輪王寺は徳川幕府によってもとの実城寺の名称に戻され、明治時代に廃寺となりました。
現在は皇居跡公園とされ、南朝妙法殿が建てられています。
「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2017-10-12 00:45 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)