太平記を歩く。 その140 「吉水神社」 奈良県吉野郡吉野町
「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から南東に300mほど下ったところに、吉水神社という由緒ある神社があるのですが、ここはかつて吉水院といわれ、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。
延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山に入ると、吉水院の住僧であり金峯山寺の執行でもあった宗信法印らに迎えられ、ひとまず、ここ吉水院を仮の皇居としました。
天皇は、楠木正行、真木定観、三輪西阿ら率いる兵に守られ、ここ吉水院に入ったと伝えられます。
吉水神社の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されています。
が、残念ながら、わたしが訪れたこの時期は、書院改修工事中のためその外観を見ることができませんでした。
由緒書きです。
外観は見られませんでしたが、書院内は見学できました。
書院内には、後醍醐天皇玉座が残されています。
南朝4代57年の歴史は、ここから始まったんですね。
この部屋は上段の間五畳と下段十畳敷で構成されています。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」
この有名な後醍醐天皇の御製は、この部屋で生まれたそうです。
こちらも御製。
時代は下って文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際、ここ吉水院を本陣として数日間滞在したと伝えられますが、その際、この部屋も修繕されたと伝わります。
正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品だそうです。
書院内には、後醍醐天皇に関する様々な宝物が展示されています。
撮影禁止じゃないのがありがたい。
こちらの掛け軸は、若き後醍醐天皇御宸影。
こちらは、教科書などでよく知られている後醍醐天皇御潅頂宸影です。
こちらは後醍醐天皇御宸翰。
天皇自筆の書ということですね。
他にも、石硯や茶入れなど、後醍醐天皇御物が数多く展示されています。
『太平記』とは関係ありませんが、先述したように安土桃山時代、豊臣秀吉がここで盛大な花見を催しており、そのときの寄贈物も多く残されています。
上の写真は秀吉愛用の金屏風。
こちらは豊太閤吉野之花見図の複製。
こちらは秀吉寄贈の壺と花瓶。
また、時代は遡って、文治元年(1185年)、兄・源頼朝の追手を逃れた源義経と静御前は、弁慶と共に吉野に入り、ここ吉水院に潜伏していたとの伝承もあります。
そして、ここが義経と静御前の別れの地となったそうです。
上の写真は、義経らが数日間を過ごした潜居の間。
「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前
書院を出て庭の北側に行くと、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋できる日を祈ったという北闕門(ほっけつもん)があります。
「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」後醍醐天皇御製
上の御製は後醍醐天皇の辞世と言われていますが、この歌にある「北闕の天」とは、この門から見た京都の空のことでしょう。
北闕門に掲げられた後醍醐天皇御製です。
「みよし野の 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん」後醍醐天皇御製
ある日、この門の前で後醍醐天皇がこの歌を詠まれると、側にいた宗信法印が次の歌を返したといいます。
「花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよし野の山」宗信法印
後醍醐天皇は京に戻る日を花にたとえ、「花はいつ咲くのだろか?」と宗信法印に問うたところ、「花の咲く時期はわかりませんが、かならずすばらしい花が咲きますよ」と、宗信法印は返したんですね。
しかし、後醍醐天皇が生きているあいだにその花が咲くことはありませんでした。
後醍醐天皇崩御に際して、その忠臣たちがここで号泣したと伝えられます。
様々な歴史の舞台となった吉水院は、明治8年(1875年)、吉水神社に改められました。
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by sakanoueno-kumo | 2017-10-13 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)