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大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

平成29年(2017年)の今年は、大政奉還から150年にあたります。

京都では「大政奉還150年周年記念プロジェクト」と題したイベントが各所で行われていますが、大政奉還といえば、いちばんはやはりその発表の舞台となった二条城を訪れるべきでしょう。

というわけで、先日、朝から夕方まで二条城をみっちり歩いてきました。


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写真は東大手門前に設置された金屏風風の看板。

いまから150年前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が、政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として264年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げました。


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その前日の10月13日に、ここ二条城の二の丸御殿に上洛中の40藩の重臣を召集し大政奉還を発表しました。

その二の丸御殿に行く前に、まずは城の外堀に添って外周を歩きます。


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上の写真は東南隅櫓

国の重要文化財に指定されています。

堀川通を南から北上してくると、まず最初に目に入るのが、このです。


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現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたもので、東南隅櫓はその築城当初に造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年(1788年)に起きた大火によってそのうちのふたつが焼失してしまい、現在はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです。


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東南隅櫓から外堀沿いに西へあるくと、南門があります。

この南門は大正4年(1915年)に大正天皇(第123代天皇)の大典に備えてあらたに造られたもので、本来の城門ではないそうです。


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外堀に面した石垣

「打込み接ぎ」ですね。

慶長年間(1600年~1615年)に築かれた城は、この「打込み接ぎ」の工法が多いです。

現存する大坂城などに見られる「切込み接ぎ」は、大坂夏の陣以降の元和期に多用されるようになった工法で、また、関ヶ原の戦い以前は、自然石を積み上げる「野面積み」が主流でした。

この「打込み接ぎ」は、石垣が進化する過渡期の工法といえます。


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そして、こちらが西南隅櫓

東南隅櫓と同じく慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られ、寛永3年(1626年)に改修されました。

こちらも国の重要文化財に指定されています。


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二重二階の構造で、西と南に石落としが見えます。


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西南隅櫓と外堀です。


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西南隅櫓から北上すると、西門があります。

寛永年間(1624年〜1643年)に造られたといわれています。

大政奉還を発表したとき、徳川慶喜がこの西門から城外に出たと伝わるそうです。


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西面の外堀です。


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そしてこちらは北大手門

ここも東南隅櫓や西南隅櫓と同じく、慶長7年(1602年)から翌年にかけて造られて寛永3年(1626年)に改修されました。

ここも国の重要文化財に指定されています。


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東面の外堀。


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外堀を1周まわって東大手門に戻ってきました。

ここが二条城の正門です。


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現存の門は、寛文2年(1662年)頃に造られたと考えられています。

築城当時は現在のような2階建の櫓門でしたが、寛永3年(1626年)の後水尾天皇(第108代天皇)の行幸の際には、天皇を2階から見下さないようにとの配慮から、一重の唐門に建て替えられたと言われています。


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門幅13間におよぶ勇壮な門で、国の重要文化財に指定されています。


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東大手門は平成26年(2014年)10月から改修工事が行われ、今年(平成29年)3月に完成しました。

この日は、その記念として櫓内部を特別公開していました。


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櫓内部です。


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さて、外堀と門だけでずいぶん長くなっちゃいました。

次回に続きます。










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by sakanoueno-kumo | 2017-11-07 23:22 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(8)  

Commented by heitaroh at 2017-12-08 11:47
二条城も行きましたが、まだ、デジカメも無い時代でして、大政奉還の間以外はあんまり覚えてません。
それより、ここまで見てきて、改めて気がつきましたが、よくあちこち行かれてますよねえ。
少年野球やめたら、急に生き生きしてきたような(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2017-12-08 17:51
> heitarohさん

そうなんです。
少年野球も、それはそれで楽しい思いや感動をたくさんさせてもらいましたが、12年ほど続けて、もういいかな、と。
で、現在の休日の過ごし方は、誰に干渉されることもなく、気ままな一人旅を愉しんでいます。
「一人」っていうのが、これほど楽しいものだとは、若いころの私は思いもしませんでした。
Commented by heitaroh at 2017-12-20 18:27
御意。
私も最近はどこに行くにも一人です。
特にこういう史跡めぐりは興味が無い人と一緒だと逆に気を遣うので、満足するまで見れません。
Commented by sakanoueno-kumo at 2017-12-23 00:43
> heitarohさん

そうですよね。
ひとりだと、気まぐれに現地で予定を変更したり、勝手気ままに行動できますもんね。
Commented by ZODIAC12 at 2018-09-09 16:27 x
もう昨年の記事ですね。今年は明治維新150周年の節目の年ですが。


>>>これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が<<<

ん?「264年」ですよね?


>>>さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げました。<<<

私は昔から秘かに思ってたのですが、よく江戸末期、明治維新直前の時期を「幕末」と呼びますが、この時代呼称は、

◆江戸「幕」府の時代の「末」期
◆鎌倉幕府以来700年弱も続いた「幕」府支配の時代の「末」期

の、果たしてどちらの意味なのかと。


この二条城は初代将軍・徳川家康が将軍宣下を受けた場所であり、最後の15代将軍・徳川慶喜が大政奉還の儀式を執り行った場所でもあるので、いわば江戸幕府の始まった場所であると同時に、江戸幕府が終わった場所でもある訳でして、重要な歴史的意義を持った城ですよね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-09-10 19:34
> ZODIAC12さん

ご指摘ありがとうございます。
誤植です。
さっそく訂正させていただきました。

>>江戸「幕」府の時代の「末」期なのか、鎌倉幕府以来700年弱も続いた「幕」府支配の時代の「末」期なのか

なるほど、たしかに、言われてみれば。
いままで何の疑いもなく江戸幕府の末期と思っていましたが、たしかに深い意味では後者の解釈を持たせることもできますね。
このとき実質的に滅んだのは江戸幕府でしたが、歴史学的に見れば、武家政権そものもの終焉だったわけで。

ちなみに「幕府」という言葉は、江戸時代には一部のインテリ層だけが知っていた言葉で、一般に使われるようになったのは明治に入ってからだそうですね。
だから、「幕末」はもちろん、「討幕」「佐幕」なんて言葉も、すべて後世に作られたもので、当時の幕府をさす公用語は「大公儀」でした。
なので、大河ドラマなどで「幕府を討つ!」などと言っているのは、実は嘘なんですね。
Commented by ZODIAC12 at 2018-12-23 16:13 x
またここへ来ました。


>>>ちなみに「幕府」という言葉は、江戸時代には一部のインテリ層だけが知っていた言葉で、一般に使われるようになったのは明治に入ってからだそうですね。
だから、「幕末」はもちろん、「討幕」「佐幕」なんて言葉も、すべて後世に作られたもので、当時の幕府をさす公用語は「大公儀」でした。
なので、大河ドラマなどで「幕府を討つ!」などと言っているのは、実は嘘なんですね。<<<


やはりTVの時代劇の影響が大きいでしょうね。当時あり得なかった筈の言い回しを、さも当たり前だったのかのように台詞で言ってますから。
「幕藩体制」という政治用語も明治どころか昭和、それも戦後になって大分経ってからだと言うじゃありませんか。

後、昔から気になってたのが、劇中の登場人物たちが相手を諱(本名)で呼んだりしている事でしょうか。
史実だと他人を諱で呼ぶのは非礼に当たるのに。だから呼ぶ時は苗字、通称、官職名、雅号とかで呼んでる訳ですよ。

相手を諱で呼ぶ事が許されるのは、その人間にとっての主君か、親か、師匠という間柄の人種だけです。
なのにそうでない人間が、相手を当たり前のように諱で呼んでるのには違和感があります。
現実だったら「無礼な!!」と怒り出してる所ですよ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-12-24 17:00
> ZODIAC12さん

まあ、当時の言語でそのままドラマを描いたとすれば、何を言っているのかさっぱりわからないものになるでしょうから、ドラマにならないでしょうね。
小説などでも、吉川栄治さんが戦前に書いたものなどを読むと、わたしたち世代には理解できない言葉や言い回しがたくさん出てきますし。
ある程度、時代に合わせたわかりやすさというのも必要だと思います。
ただ、どこまでが許容範囲かということでしょうね。

おっしゃるように、相手の呼び方についても、現在のドラマでは位が上の相手を簡単にファーストネームで呼んでいますが、これも、若い人が観てもわかりやすくするためなんでしょうが、わたしらにすれば、多少違和感を感じますね。
昭和のドラマでは、「秀吉様」なんて絶対言わなかったですからね。
「筑前守」でした。
それから、一人称などもそうで、昔のドラマでは、「それがし」「拙者」が当たり前でしたが、今では、「俺」とか言っちゃってます。
今年の大河「西郷どん」では、将軍慶喜が自身のことを「俺」と言い、一陪臣の西郷が将軍である慶喜に対して「慶喜様」とか呼んだりして・・・。
ちょっとめちゃくちゃになってきましたね。
それから、礼をいうときでも、昭和のドラマでは「かたじけない」でしたが、最近では「ありがとう」になっちゃってます。
まあ、昭和の作品だって、戦前の小説などからすればわかりやすく現代語になっていたのでしょうが、こうして、時代劇言葉が消えていくというのは、残念な限りです。

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