おんな城主 直虎 第46話「悪女について」 ~松平信康自刃事件(後編)~
また、信長が自身の息子である織田信忠より信康の方が優れていると見て、息子の代になって徳川と織田の力関係が逆転することを恐れて事前に芽を摘んだという説もありますが、これも、何の根拠もない推論にすぎませんし、本当に信康が有能な人材だったのなら、能力主義の信長であれば、むしろ婿として重宝したのではないかとわたしは思います。信長の一代記『信長公記』には事件の記述はなく、この事件に関しては、信長は不介入だったと見るほうが妥当かもしれません。
築山殿の殺害についても史料に乏しく詳らかではありませんが、ひとつの説としては、築山殿は今川一族の出であり、彼女の父は家康が今川氏を裏切って織田氏と結んだことで今川氏真に切腹させられ、そのことで、築山殿は家康を憎んでいたとの見方があります。そのせいか、のちに今川の人質生活から岡崎に移ったあとも、岡崎城には入らず(あるいは入ることが許されず)、城外にある惣持尼寺の西側に屋敷を与えられ、そこで暮らしていました。その屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、「築山殿」と称されるようになったと言われます(ドラマでは、この呼称は使われなかったですね)。そんな立場ですから、当然、信長の娘である徳姫との関係も悪く、かつて武田氏の家臣だった浅原昌時や日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせ、また、築山殿自身も、唐人医師の減敬とのゲス不倫があったとも、武田氏と内通していたともいわれます。
信康の自刃に関しては、近年の研究では、家康との父子不仲説が主流となりつつあるようです。不仲説というと聞こえが悪いですが、この時期、織田氏と同盟関係にありながらも、徳川家内はまだまだ武田氏と結ぶべきとの意見も多く、その急先鋒が息子の信康だったとされ、そのせいで、家臣団も両派に分裂しつつあったとされます。家康は徳川家の分裂を避けるため、やむを得ず息子を殺す決断をした、と。一国を預かる武家の棟梁としては、肉親の命よりも、お家の結束が優先だったんですね。
ドラマでは、虚実織り交ぜてきれいにまとめていたんじゃないでしょうか。家康も信康も瀬名も、それぞれが互いの立場を尊重しながら、なんとかこの苦境を乗り切ろうと必死で模索しますが、上手く連携できず、結局は徳川家にとって最悪の着地点となりました。何もかもが終わったあと、万千代に碁石を投げつけて嘆くシーンが切なかったですね。ちなみに、落ち込む万千代に対して井伊直虎が、「そなたが信康様の代わり身となればよいではないか」と言っていましたが、このとき万千代は19歳。死んだ信康は21歳で、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があったかもしれません。事実、これより間もなく井伊直政の異例の出世街道がはじまります。あるいは、家康は直政のなかに信康の面影を見ていたのかもしれません。
後年、家康は関ヶ原の戦いにおいて、大遅参した三男・徳川秀忠の器量のなさを嘆き、「信康が生きていてくれれば・・・」とため息をついたという有名な話がありますが、奇しくも、その日は9月15日、信康の21回目の命日でした。きっと、家康は戦い前から信康のことを思い出していて、だから、そんな言葉を吐いたのでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2017-11-20 15:24 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(0)
皆さんこんばんは。今回は去年の大河ドラマ『おんな城主直虎』の感想シリーズということで、第46~50回までの感想を書きます。ついにラストですね。一昨年の『真田丸』に比べたら随分早く終うことができました 笑まずはあらすじ。織田信長(市川海老蔵)に武田との内通を疑わ... more