鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その3 「桝屋清右衛門宅(龍馬の隠れ家)」
坂本龍馬が鞆の浦に滞在した4日間、宿泊していたとされる桝屋清右衛門宅を訪れました。
屋根が片方だけ長い特徴的なつくりですが、これは、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけてる工法で、鞆では19世紀以降に流行した手法だそうです。
商家の見栄っ張りな気風がよく現れている建物だそうです。


「坂本龍馬宿泊跡」と刻まれた石碑が。

入口は2ヵ所ありますが、南側の入口から入ります。

玄関を入るとすぐに、龍馬の写真パネルが迎えてくれます。

こちらは説明板。

順路を進むと、日本間に時代劇などでよく見る商家の衝立が。
ここに番頭さんがいたのでしょうか?

横のふすまには坂本家の桔梗の家紋が入った袴下が飾られています。

順路に沿って奥に進みます。

物置のような箪笥部屋に、梯子が架かっています。

当時は、屋根裏部屋に行くにはこの梯子しかなかったようで、板が閉じられていれば、上に部屋があることはわからなかったそうです。
まさに隠し部屋ですね。
あるいは命を狙われるかもしれない談判に臨む龍馬としては、このような場所に潜む必要があったわけです。

いまは観光用に階段が設置されています。

階段を上ると、海援隊のメンバーが集っていました(笑)。
左から3番目が龍馬です。

そして更にこの細い階段を上ると・・・。

ありました!
龍馬の隠れ部屋です。
広さは約8畳で、壁は当時のままだそうです。

ホームページの解説によると、龍馬がここに宿泊した理由は、長崎の豪商・小曽根乾堂の末弟である小曾根英四郎が積荷の仕切り役としていろは丸に乗っており、その小曾根家と桝屋は商取引があったと思われ、英四郎の仲立ちで桝屋を宿舎に定めたと考えられているそうです。
ここ桝屋清右衛門宅に龍馬が泊ったという伝承がありましたが、長年その場所は確認されていなかったそうです。
そこで平成元年(1989年)、「坂本龍馬は屋根裏部屋に泊った」との言い伝えから地元の有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、この隠れ部屋が発見されたそうです。
部屋は当時のまま手つかずで残されていたそうで、ほこりや傷みがひどく、一般に公開できる状態ではなかったそうですが、広島県などの補助金を利用し整備を進め、平成23年(2011年)から一般公開することになったそうです。

龍馬がここに泊まった証としては、紀州藩との賠償交渉の経過が記された『備後鞆津応接筆記』のなかに残されているそうで、そこには、「才谷梅太郎」の偽名で宿泊していたと記されているそうです。

机の上の手紙は、「才谷梅太郎」の名で京都の伏見寺田屋のお登勢に宛てて書いた手紙(複製)で、その日付から、龍馬がこの鞆の浦で書いたものと思われるそうです。

身の危険を感じながらも、龍馬はこの部屋で談判の策を練っていたんでしょうね。
次回はその談判の場を訪れます。
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by sakanoueno-kumo | 2017-11-23 23:41 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)