太平記を歩く。 その167 「和田賢秀墓所」 大阪府四條畷市
前稿で紹介した楠木正行の墓所から北東600mほどのところに、和田賢秀の墓所があります。
和田賢秀は楠木正成の弟・楠木正季の子で、正行・正時とは従兄弟にあたります。
父の正季は「湊川の戦い」の戦いで兄・正成とともに戦死しましたが、息子の賢秀も、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で正行・正時とともに討死しました。

賢秀の墓所は国道170号戦に面した場所にあり、墓所の前は「塚脇」というバス停になっています。

正行の墓所の入口には「忠」「孝」と刻まれた石柱がありましたが、賢秀の墓所の入口の石柱は、「忠」「烈」の2文字でした。

賢秀は楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、四條畷の戦いにおいては剃髪して新発意(しんぼっち)と称して合戦に臨んだとも伝わります。

その伝承によると、正行・正時が自刃したあと、賢秀は敵将・高師直の首を討とうと敵陣に単身乗り込みますが、かつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に見つかり、首をはねられました。
そのとき、はねられた首が敵に噛み付いたまま睨んで離れず、本宮太郎左衛門はその後、その恐怖から病に伏し、1週間後にもがき苦しんで死んだと伝わります。

以下、『太平記』『太平記』巻26「楠正行最期事」原文
和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。
『太平記』は、本宮太郎左衛門の死因を賢秀の怨霊としています。

墓石には「和田源秀戦死墓」と刻まれています。

「むかし問へは すすき尾花の あらし吹く」
墓石の裏に刻まれている歌だそうです。

首を討たれてもなお噛み付いて離さなかったというのは伝説としても、死に際に敵に噛み付いたのは本当だったかもしれませんね。
あるとき、地元の人が歯痛で苦しんだ折にこの賢秀の墓所で祈願したところ、たちどころに歯痛が治ったことから、地元では賢秀のことを「歯噛(神)さん」と呼んで祀っているそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2017-12-13 23:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)