太平記を歩く。 その168 「楠木正行首塚(正行寺)」 京都府宇治市
「その166」で紹介した楠木正行の墓所以外にも、正行の首塚と伝わる場所があります。
まずは、京都府宇治市六地蔵にある正行寺を訪れました。

何と言っても「正行寺」という名称ですからね。
いかにも正行と関係ありそうです。

そして、これが正行の首塚とされる墓石です。
境内の隅にひっそりとあります。

墓石の後ろにある正行寺由来によると、正成は正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃する直前、同行していた随臣の安間了意を呼び、「わが首を敵に取らしむる勿れ」と遺命し、了意は首級を携え吉野に逃れようとしたものの、足利の軍勢に遮られたため、ここ六地蔵に埋葬したとあります。
その後、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)がその忠死を追悼され、一宇の小堂を墳墓の上に建立し賜い、その墓は600年の間隠匿していましたが、昭和の時代になって陽のあたる場所にと、ここに正行寺の境内に移されたそうです。

四條畷から吉野に首級を運ぶ途中に足利軍に阻まれて埋葬したのが、なぜ吉野とは全く方向違いの宇治市六地蔵だったのかがわかりませんが、まあ、正行寺という名称ということで、実話ということにしておきましょう。
この種の伝承を細かく詮索するのは、無粋というものです。
次回も、正行の墓を巡ります。
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by sakanoueno-kumo | 2017-12-14 23:58 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(0)

この織姫神社ですが、なんで織姫なのかな・・・と思っていたら、あの、七夕の織姫じゃなくて、足利市は明治の頃は織物産業で潤った町だったんですね。だから、機織りの「織」を当時、織物で財をなした資産家らが祀った神社なんだとか・・・。意外と最近の物だったんですね・・・。で、補足的に申し上げれば、この織姫神社でもう一つ、注目したのがこちらの画像(←)。一見、何の変哲もない階段に見えるでしょうが、私が感心したのはこの手すりの部分・・・です。拡大すると、こちら(←)。つまり、この手すりの中を水が通っていて、防火用水...... more