太平記を歩く。 その169 「楠木正行首塚・足利義詮の墓(寶篋院)」 京都市右京区
「その166」「その168」で楠木正行の墓を紹介しましたが、京都の嵯峨にある寶篋院にも、正行の首塚と伝わる石塔があります。

正門の前には「小楠公菩提寺寶篋院」と刻まれた石碑があります。

正門をくぐると、楓の木のトンネルが迎えてくれます。
紅葉の季節に来ればさぞ美しかったでしょうが、ここを訪れたのは10月2日、紅葉はまだ1か月以上先です。

境内のいちばん奥に首塚はあります。
その入り口には、「小楠公首塚之門標」と刻まれた石柱があります。

そして、これがその首塚。
立派な玉垣で囲われていますが、よく見ると、中には石塔が2つあり、石扉にも2種の紋章が・・・。

なっなんと、足利家の二つ引両紋と楠木家の菊水紋が並んでいます。
敵同士であるはずの両家の紋章がなぜ????

ここ寶篋院の中興の祖である黙庵周諭禅師が、楠木正行の生前に相識り、正行から後事を託されていたそうで、正行が正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃すると、黙庵はその首級を生前の交誼により、ここ寶篋院の前身である善入寺に葬ったそうです。
その後、黙庵から正行の話を聞いた室町幕府2代将軍・足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだといいます。
義詮が死没したのは正平22年/貞治6年(1367年)と伝えられますから、まだ、南北朝は分裂したままの時代。
そんな時代に、ここでは南朝・北朝の隔たりを超えた空間があったんですね。
これって、当時はスゴイことだったんじゃないかと。

右が正行の首塚で、左が義詮の墓石。
義詮の方がずいぶん立派ですが、まあ、将軍ですからね。
これぐらいの差はあって当然なんじゃないかと。

本堂です。


本堂の中には、正行の木像が安置されていました。

こちらの絵は、「黙庵禅師と楠木正行」だそうです。

こちらは、「四条畷合戦の図」。

義詮が没すると善入寺はその菩提寺となり、8代将軍足利義政の代になって、義詮の院号に因んで寶篋院と改められたそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2017-12-16 02:04 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(2)

ずっと気になっていましたが、寸暇を惜しんで以前の続きです。足利館跡と言われる鑁阿寺でしたが、確かに、往時を偲ばせる土塁や堀はありましたが、私には何だか、後世になってからの物であるような観がありましたし、それ以前に私にはここが足利館跡・・・ということにどうにも違和感がありました。で、その結果、気がついたのが背後にある山(↑)・・・。私としたことが迂闊でした。織田信長の岐阜城にしても武田信玄の躑躅ヶ崎にしても、普段は麓の館で暮らし、有事の際に背後の峻厳な山を利用する・・・という造りになっていたのを思い出...... more
せっかくなので、以前行った関東の足利家のことをTBしておきました。
TB超久しぶりだったので、やりかた忘れてました(笑)。