太平記を歩く。 その176 「楠妣庵観音寺」 大阪府富田林市

楠木正成の妻で、楠木正行の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔った場所と伝わる「楠妣庵観音寺」を訪れました。


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参道入口では、「太平記の里」と書かれた大きな看板が迎えてくれます。


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「峰篠山楠妣庵観音寺」というのが正式名称で、その起源は、在世中の楠木正行が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の崩御を悼み、峰篠山の一角に後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが始まりとされます。


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山門に上る階段の横には、久子と正行の母子像があります。


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「その163」で紹介した四条畷神社にも、同じ母子像がありましたよね。


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これは、『太平記』巻16「正成首送故郷事」に出てくるくだりで、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が河内の一族のもとに送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、これを見た久子は正行をこう叱責して諭します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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山門への階段を上ります。


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山門横には、高さ30mケヤキの巨樹が聳えます。

樹齢どれくらいでしょうか?


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階段横には楠木正成像が。


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この短足具合が、大河ドラマ『太平記』武田鉄矢さん扮する正成に似てます(笑)。


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説明板によると、この像は元弘3年/正慶2年(1333年)5月に隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、「その60」で紹介した摂津国の福厳寺で対面したときの正成の姿だそうです。


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山門です。

もとは山形県の恵林寺塔頭青松軒に建立されていた門だそうで、本坊が焼失して門だけが残存していたものを昭和39年(1964年)、大楠公夫人600年祭に移築されたそうです。


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山門をくぐると、すぐに本堂があります。

大正11年(1922年)に再興されたものだそうで、正成の旗頭の文字「非理法権天」が掲げられています。


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本堂前にある「菊水」家紋入りの水桶


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本堂前の石段を上ると、久子の墓があります。


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こちらがその墓。


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久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹もしくは娘といわれ、ここ甘南備の矢佐利に生まれたと伝わります。

ちなみに久子という名は、観心寺過去帳によるとされます。

元亨3年(1323年)、20歳で正成と結婚。

ここ楠妣庵観音寺の説明書きには、正成との間に正行、正時、正儀、正秀、正平、朝成6人の子をなしたとありますが、実際には、実子とみられるのは正行、正時のふたりで、そのほかの子が久子の子であるかどうかは定かではありません。


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墓は600年余りささやかな五輪一基が寂しく祀られていましたが、現在は玉垣に囲われた立派な墓所になっています。


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墓所の側らには楠木一族の供養塔が。


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墓所の隣にある観音堂です。

久子の念持仏である「十一面観音」が祀られている小堂で、大正6年(1917年)5月に建立されたそうです。


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こちらは、久子が隠棲したとされる草庵「楠妣庵」復元です。

観音堂と同じく大正6年(1917年)5月に建立。


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皇太子時代の昭和天皇(第124代天皇)もここに行啓されたそうで、お手植えのクスノキがあります。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」正行、正時兄弟が戦死すると、久子は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を「敗鏡尼」と称し、夫正成をはじめ一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと16年間の余生を過ごしたといわれます。

その隠棲地を「楠妣庵」といい、久子の没後、正行の弟・正儀が観音殿を改め「観音寺」として楠一族の菩提寺としたことから、「楠妣庵観音寺」と呼ばれるようになったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-05 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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