太平記を歩く。 その180 「山下城跡」 加西市
兵庫県加西市にある「山下城跡」を訪れました。
ここは、赤松則祐の幕下にあった浦上七郎兵衛行景の居城と伝わります。

写真は南西から見た山下城跡です。
山下城は戦国期の城としては珍しい平山城で、本丸は比高約30mの丘上にあります。

正平6年/観応2年(1351年)年2月4日、足利尊氏と足利直義方の石塔頼房が激突した「光明寺合戦」が起きると、浦上七郎兵衛行景も赤松則祐に従って尊氏方に与し、活躍したと伝えられます。

この城自体が戦下に晒されたかどうかは、定かではありません。

二ノ丸跡です。

そして本丸跡です。

本丸跡には、詳細な想定縄張り図が設置されています。

本丸跡からの南西の眺望です。
左端に少しだけ覗いているのが、善防山城跡です。

本丸を下りて、大手口方向に向かいます。
立派な土塁跡です。

上の縄張り図でいうところの大手守備郭から見た北西の景色です。
春日山城跡のある飯盛山が見えます(参照:三木合戦ゆかりの地めぐり その43 ~春日山城跡~)。

城跡東側にある常行院には、案内板が設置されています。

常行院は、かつてあった田富山田福寺の塔頭のひとつで、案内板の横には田福寺の由来記があります。
それによると、(西暦1320年頃)とありますから元号に直すと元応2年頃、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)御代、当地の武士浦上太郎左衛門が寺を焼き払って城郭を構えたとあります。
つまり、ここも城郭の一部だったってことですね。

時代は下って織豊時代、織田方の羽柴秀吉軍と三木城主の別所長治の間で行われた三木合戦に際して、当時の山下城主だった浦上久松が、三木城籠城戦に加わって戦死したと伝わります。
このときのことは、「三木合戦ゆかりの地めぐり その42 ~山下城跡~」の稿で紹介していますので、よければ一読ください。
「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-01-12 21:46 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)