太平記を歩く。 その182 「松岡城跡(勝福寺)」 神戸市須磨区

正平6年/観応2年(1351年)年2月17日に起きた「打出浜の戦い」に破れた足利尊氏軍は、西へ敗走して松岡城へ逃げ込みます。

その松岡城は、神戸市須磨区にある勝福寺付近だったといわれています。


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この辺りの住所は大手町といいますから、日本のあちこちにある大手という地名のほとんどがそうであるように、かつて城の正面にあたる場所だった名残だと考えられます。


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『太平記』巻29「松岡城周章事」によると、

「小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。」


とあります。

「小清水」とは、たぶん「越水」のことで、越水に陣を布いた足利直義軍のことでしょう。

「四方四町」というのがどのくらいの面積なのかわかりませんが、文面から見て、たいして大きな城ではなかったようですね。

『太平記』には、この時残った軍勢が「かれこれ五百騎に過ぎ候はじ」とありますから、城が狭くてほとんどの兵が閉め出されたということでしょうか。


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勝福寺の裏山に少しだけ登ってみましたが、登山道が整備されていて、遺構といえるかどうかはわかりませんでした。


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その裏山からの眺望です。

この日は天気が良くなかったので霞んでいますが、晴れていればが望めます。


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もはやこれまでと悟った尊氏は、ここ松岡城での切腹を決意したと伝わります。

その夜、別れの酒宴を開いていたところ、逃げたと思っていた尊氏の家臣・饗庭命鶴が駆け付け、直義との和議が成立したことを伝えました。

間一髪で切腹を取り止めた尊氏は、2月25日に松岡城を出発、山陽道を京へと引き返すのですが、その帰路、「その181」で紹介した鷲林寺の前で高師直が殺され、また、その翌年には足利直義が尊氏に殺害(異説あり)されたことで、「観応の擾乱」は一応の決着をみます。


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勝福寺の石段の上り口の左手に証楽上人の墓所があるのですが、このあたりを「ハラキリ堂」と呼んでいるそうで、切腹しようとした尊氏に由来していると考えられています。


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ところでこの松岡城、もうひとつの説として、打出浜の戦いの舞台から見て東にあたる鳴尾方面にあったという説もあります。

寛政年間(18世紀末)に刊行されてベストセラーとなった江戸時代の観光ガイドブック『摂津名所図会』によると、

松岡古城 小松鳴尾の山手にあり、観応二年将軍尊氏公、轟師直と共に退きて、ここに拠れり。


と記されています(参照:摂津名所図会)。

下の写真は西宮市の廣田神社にある江戸中期の案内板


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右下のあたりに「松岡古城」と書かれているのがわかるでしょうか?


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この地図は、『摂津名所図会』を元に作られたものだそうです。

現在では、先述した須磨区の勝福寺付近が通説とされていますが、だとしたら、『摂津名所図会』が刊行された当時、このあたりに城跡とみられる何らかの史跡が存在したのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-17 23:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

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