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太平記を歩く。 その198 「後村上天皇陵(観心寺)」 大阪府河内長野市

「その102」で紹介した楠木正成首塚がある観心寺に、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の陵があります。


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観心寺の山門をくぐってすぐ右手に池があり、その向こうに、「後村上天皇御奮跡」と刻まれた大きな石碑が立っています。

観心寺は、正平14年/延文4年(1359年)から約10年間、南朝の行在所となりました。


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後村上天皇陵は別名、檜尾陵といいます。

公式形式は円丘

この長い階段を上ったところにあります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第7皇子として生まれた後村上天皇は、建武の親政が始まると、東国武士の帰属を目的に北畠親房等と共に東国へ出兵しました。

その後、足利尊氏が離反すると討伐のために京へ戻りますが、その後も戦が続き、幼い身で奥州、美濃等各地の戦場に身を置きます。

延元4年/暦応2年(1339年)3月、11歳で吉野朝の父帝の元に戻ると、間もなく皇太子となり、同年8月に父帝の譲位を受けて天皇に即位します。


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天皇となってからは積極的に畿内の寺社や武士に対し綸旨を発し、南朝方への帰属を促しました。

一時、北朝方に攻められて紀伊賀名生行宮を移しましたが、足利幕府内の内紛・「観応の擾乱」の隙をついて北朝の崇光天皇(北朝第3代天皇)を廃位させ、一時的に南北朝の統一に成功します。(正平一統)

そして、京都を奪還すべく河内国・摂津国経由で山城国の男山八幡に入り、七条大宮の戦にて足利方を破り京都を奪還しますが、勢力を盛替えした足利方の反撃に破れ、賀名生に戻ったあと河内金剛寺を行宮とし、のちにここ観心寺に移ります。


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この後も、楠木正儀らが再度京を奪還しますが、すぐに義詮軍の反撃に遭って撤退。

住吉行宮に戻った後村上天皇は、北朝方との和睦交渉を行いますが、あくまで強硬姿勢だったため交渉は決裂しました。

このころ天皇は病を得ており、和睦交渉の翌年、住吉行宮にて崩御されます。

在位30年、宝算41歳


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後村上天皇は嘉暦3年(1328年)に生まれ、正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御されたといいますから、ほぼ『太平記』の物語の年月と重なります。

『太平記』は父・後醍醐天皇の挙兵によって幕を開けますが、『太平記』を生きた天皇は、後村上天皇だったといえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-10 01:42 | 太平記を歩く | Comments(0)  

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