西郷どん 第6話「謎の漂流者」 ~ジョン万次郎と薩摩藩~

e0158128_23434994.jpg
 土佐の貧しいの家に生まれながら、少年期に遭難してアメリカの捕鯨船に助けられたことで、アメリカに渡り、西洋文化に触れ、帰国後はその知識で幕府高官にも討幕の志士たちにも多大な影響を与えたことで知られるジョン万次郎こと中濱萬次郎。天保12年(1841年)、14歳のときに漁師仲間4人と共に遭難し、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着して何とか命を繋いでいると、143日目にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されます。その後、他の4人はハワイで下船して日本に帰国しますが、好奇心旺盛だった少年・万次郎はこのまま船に残りたいと希望し、その向学心を気に入った船長のホイットフィールドは、そのまま本国へ連れて帰りました。

 アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となります。そしてオックスフォード学校、バーレットアカデミーに通い、英語、数学、測量術、航海術、造船技術などを猛勉強し、なんと首席で卒業したといいます。英和辞典なんてない時代ですからね。ていうか、言葉のハンデだけじゃなく、万次郎の場合、土佐にいた頃は貧しさで寺子屋に通うことも出来ず、読み書きもほとんど出来なかったといいます。そんな状態から、わずか2年半の在学で首席になったわけですから、すごい吸収力ですよね。それと、そのポテンシャルの高さを見抜いて教育を受けさせたホイットフィールドもすごいですね。もし、あのまま土佐で漁師をしていたら、万次郎はその頭の良さを発揮できる機会を得ることなく生涯を終えたことでしょう。人生はわからないものです。


 学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、一等航海士として世界の海を股にかける生活をしていましたが、アメリカに渡って10年近くが過ぎた嘉永3年(1850年)、日本に帰国することを決意。万次郎は捕鯨船時代の収入に加えて、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて資金をため、小型船の「アドベンチャー号」を購入し、上海に向かう商船に乗せて日本に向かいました。


e0158128_20010110.jpg

翌嘉永4年(1851年)2月、万次郎はアドベンチャー号で当時は薩摩藩領だった琉球に接岸し、番所で尋問を受けたのち、薩摩本土に送られました。言うまでもなく当時の日本は鎖国状態。日本船の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止する海外渡航禁止令が布かれており、その禁を破った万次郎は、下手をすれば死罪になりかねません。ところが、万次郎にとって幸運だったのは、ときの薩摩藩主が開明的で知られる島津斉彬だったこと。「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好んだ斉彬にとっては、万次郎はまさに歓迎すべき人物だったわけです。斉彬は万次郎一行を手厚く歓待し、斉彬自ら直々に質問するなどの厚遇ぶりだったといいます。このときはまだ、ペリー提督率いる黒船艦隊来航の2年前で、世の中はまだ、西洋文明に対してそれほど明るくない時代です。もし、万次郎の帰国があと数か月早ければ、前藩主・島津斉興によって死罪にされたかもしれません。人生はわからないものです。

 このとき万次郎が薩摩に滞在したのは47日間。その間、薩摩藩は万次郎から洋式の造船術や航海術、さらには海外の情勢や文化なども貪欲に教えを請い、その後、斉彬はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造しました。万次郎はその後、長崎に送られ、投獄されて取り調べを受けたあと母藩である土佐藩に引き取られ、そこでもまた取り調べを受け、琉球に着いてから1年半後、ようやく故郷の中濱村に帰ることができました。その後、すぐに万次郎は士分に取り立てられ、黒船来航後は幕府に招聘されて直参の旗本になり、激動の幕末にその存在感を示すこととなります。もし、万次郎が帰国したのが幕末と言われる時代でなければ、彼は単なる罪人でしかなかったかもしれません。ほんと、人生ってわからないものですね。

 ちなみに、「ジョン万次郎」という呼び名は、昭和13年(1938年)に直木賞を受賞した井伏鱒二の著書『ジョン萬次郎漂流記』で用いられて広まったもので、当時は、遭難した万次郎を助けた船名にちなんでジョン・マン (John Mungという愛称をアメリカ人からつけられていました。この点、ドラマは忠実でしたね。

 西郷吉之助(隆盛)は、このときはまだ斉彬に引き上げられておらず、万次郎に会うことはなかったでしょう。後年に万次郎は薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招かれますが、その頃の西郷は倒幕に向けて日本中を縦横無尽に飛び回っていた時期であり、万次郎と会っていた可能性は低いと思われます。二人の会う機会があったとすれば明治維新後だったでしょうが、記録は残っていません。お互い名前くらいは知っていたでしょうけど。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-02-12 00:01 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/27018552
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2018-03-13 18:20
タイトル : 続々・幕末薩摩藩!改革者と後継者世代の葛藤!
昨日の続きです。幕末有数の名君として知られる薩摩藩主・島津斉彬・・・ですが、しかし、この点で、昨日、述べました「調所笑左衛門―薩摩藩経済官僚」の中では、末尾の方で調所を死に追いやった斉彬という人物は「果たして名君と言えるのか?」ということについて著者は疑問を投げかけられておられました。確かに、薩摩藩が幕末、維新回天の大業に乗り出すにしても、調所笑左衛門のこの改革がなければ、金蔵は底をついたままだったし、それでは維新どころか、京都まで出て行くことすらおぼつかず、いくら名君成彬でもどうにもならかったので...... more

<< 太平記を歩く。 その200 「... 太平記を歩く。 その199 「... >>